9月7日
選びの意味』
(マルコによる福音書3章13節〜19節)
献身者奨励礼拝日 説教:重富勝己師

≪先週の聖書から≫  説教:重富勝己師    

聖書の箇所はマルコ3:13〜19aでした。

 イエスが十二弟子を選び出すところでした。イエス様は何でもご存知。私たちが教会につらなることまで全てご存知の方です。その方が後にイエスを売り渡すことになる、裏切り者のユダを弟子として選び出されていることに、私たちの関心は集中するのではないでしょうか。信仰に優れた、といえる基準でもなく、組織を作るのに優れているという基準でもありませんし、学力でもありません。

 この顔ぶれを見てみると実に不思議な顔ぶれです。たとえば、マタイと熱心党のシモンですが、マタイはローマの手先となって税金を徴収することを仕事としていましたし、シモンの手法は、ローマに反対するためには、軍事的な行動をとることもよしとしていました。

 聖書によると、二人ずつ組にして派遣したとも書いてあります。この二人が組になったかどうかは分かりませんが、もしこの二人が組になっていたら(マルコ
67、ルカ101など)大変なことになっていたでしょう。 
 このように主の選びを私たちは前もって知ることは出来ませんし、代わりに選ぶことも出来ません。私たちにとっては不思議な選びも、主の救いの業にとって見れば、目的にかなっているといえるのです。

 
さて、この日は「献身者奨励礼拝」でした。狭い意味においては、献身者とは、牧師になろう、神学校を目指そう、などということを意味しがちですが、これもまたいろいろの場所で語られることですが、このようなことばかりが献身であり、選びではないということも大切なことです。教会に選び出されたことが、選びなのではないでしょうか。

 クリスチャンとして選び出されたのが主の目的であり、この選びを最も目的にかなった方法でお用いになるのが主なのです。日本のようにクリスチャン人口が比較において、少ない国ではそのことを更にはっきりと知ることが出来るでしょう。
                           (文章
:村上)

エステルの会では、先週、初代の教会での祈りや説教がどんなふうになされたかを見ました。
 今週は5章の初めのところからでしたが、“始めのもめごと”とも言うべきことについて学びました。その中身は献金についてのことでした。バルナバは全てをゆだねましたが、アナニヤとサピラはそのことが出来ませんでした。
 お金の大切さは主イエスも語っておられます。私たちも考えましょう。

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