主日礼拝では・・・・
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『ルカによる福音書』10章25節からが開かれました。この箇所は、とても有名なところです。様々な説教がこの箇所から成されたことと思いますが、読むたびに新しいのが御言葉。
今日は、「私たちの隣人」という角度からイエスの教えを学びたいと思います。イエス様がこのように、物語やたとえを通して、神の国について語られるとき、必ず人と人の関係について語られているとことに、心にとめたいと思います。実際私たちの喜びも悲しみも、また時として優越感や劣等感も、人間関係のありよう抜きには、成立しないということは確かでしょう。しかもここでイエスがおっしゃっているのは、世の中一般においてのものではなく、福音を知ろうとする者における人間関係なのです。
「人助けは良いこと」、これは正しいでしょう。沢山の慈善団体や、実業家の団体はほどこしをします。しかしそこからは、神に感謝するという嬉しさは出てきませんし、良いことができた自分への感謝が出てくるだけでしょう。ましてや自分より裕福な人に対するほどこしも生まれてきません。
聖書は、「良き隣人」であるとはどのようなことか、この物語を通して、私達に語っているのです。強盗はもちろんですが、この被害者を避けて通り過ぎていった、レビ人なども、彼らが宗教的な指導者であったにせよ、隣人とはいえないと言っています。そして、「帰りに、私が足りないお金を払いましょう」といって、あくまでも自分との関係を、絶つことをしなかったサマリヤの人が、隣人だったのです。
ここに、旧新約聖書を通して何度も語られている神の言葉、「悪から離れなさい」、「公儀を愛しなさい」という教えが浮き上がってきます。神の国にふさわしい者の姿なのです。それは自分の当然の利益に対する侵害と戦うという権利意識を超えたものがあります。ようするに「この世に不条理が実に多いこと」を悲しく思えるかどうかということです。そこには自我を超えたあり方が示されているのではないでしょうか。
さらに主の愛に学びましょう。私達がそのように勧められているばかりでなく、ひょっとしたら私たちが襲われ、半殺しの目にあっているその人かもしれません。優しさが分かるということは、多かれ少なかれ、私たちも、不義に襲われた姿をしているからなのではないでしょうか。
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