8月10日
教会の決意』
(ルカによる福音書9章51節〜62節)

 

主日礼拝では・・・・  
『ルカによる福音書』951節以降が開かれました。
 私たちは一応の目安として『聖書日課』を用いています。先週の箇所も、これに従っています。一応、と書きましたが、その理由は「私たちは自由です」という意味から来ています。別にこの日課に拘束されることはないのですが、これに従っていけば四年で聖書の全てを読むことになります。愛用していけばとても頼りになるのが『聖書日課』といえるでしょう。沢山の教会が毎日の聖書箇所を、週報に書いているのは、実に意義あることなのです。

 さて、このたびの箇所は、このルカ951以下になっています。まず、51節ですが、「天に上げられる日が近づいた・・・」という言葉に気付くと思います。ルカ福音書はこのところで大きく二つの部分に分けられるようにさえ思われます。ここからは、十字架に向かう道なのです。そして、イエスは決意をされた、と書いてあります。世界で最高の、神様の決意と言えるかもしれません。

 次に52節からは、歓迎されない姿が描かれます。歓迎されない、となると、報復を思い出しますが、イエスは報復のようなことはされませんでした。つまり、裁きや審判をもっては臨まれなかったのです。ただ、「一同は他の村へ行った」とあるだけです。私達の前を通っていかれたイエスを見ているのではないでしょうか(56節)。

 そして「従ってまいります」という告白に出会います。イエスはその人に、そのことの意味の大切さを教えられます。私たちは、洗礼を受けるときに、主に従ってまいります、と言っているのですが、はたしてその意味の重要なことを知っているでしょうか。反対に言えば、なかなか主イエスのようにはできない、ということを知っているでしょうか、ということにもなりそうです。このあと、私たちにも耳の痛い指摘が62節まで続きます。

 ここで注意しなければいけないのは、これらの条件は、信仰を持つかどうかの問答ではなく、既に信じているものが、信ずる前の様々なことに心を奪われている、ということをイエスは言っておられるのです。告白はその通りなのですが、何か条件をつけることはないでしょうか。「すきに手をかけてから後ろを・・・」、つまり、今、すきがどうなっているか分からなくなってしまう、とおっしゃっているのでしょう。信ずるからといって、父を葬ることができない訳ではありません。

トップ アイコン トップ アイコン
トップページヘ戻る 説教集へ戻る






直線上に配置