8月3日
信じる者を信じて』
(ヨシュア記2章1節〜14節)

主日礼拝では・・・・ 
★『ヨシュア記』 は、旧約聖書の6番目にあり、イスラエルの人たちが、出エジプトを成し遂げ、約束の地・乳と蜜の流れる地に入ってゆく様が描かれています。日曜日に開かれたのは、難攻不落の城壁で守られた町、エリコの町を目前にした時の物語のところです(『ヨシュア記』2:1−14)。
 
 ヨシュアは、死海の南の方から東に回り、ヨルダン川の東の方から、この町に入ることになるのですが、状況を探るために二人の斥候を送り込むことになります。私たちは何気なく斥候が送り込まれた歴史を読み飛ばしそうですが、ヨシュアにとっては、四十年前に経験したことが、昨日のように思い出されたにちがいありません(『民数記』13,14章)。そのときは、主なる神の約束の地であったにもかかわらず、偵察に出たその所に住む人々が大きく強そうだったことにおびえてしまい、結果イスラエルの人々は四十年間の砂漠の生活を送らなければならなくなったのですから。

 さて斥候として送られた二人は、遊女でラハブという名前の人のところにたどり着くことになるのですが、エリコの王に、「イスラエルの人がこの町に潜入している」と訴える者がありました。さて、この二人の斥候の運命はこの遊女ラハブの態度にかかってしまうことになります。誰かのやり方に自分の運命がかかってしまう、とても不安なことです。幸いなことに、ラハブは、二人をかくまい、その後「確かにその人達はここに来たが、もう出て行った、そして今からなら追いつくかもしれない」といって王の使いを返すとともに、二人に、神への信仰の告白をすることになるのです。そして逆に「あなた方イスラエルの人達がこの町エリコに入ったときには、私たちの家族を助けて欲しい」と命乞いをすることになります。その後、二人の斥候を、自分の家の建っている城壁の壁の上から吊りおろして逃がすことになります。ここに実に不思議な関係がここに成立しています。お互いに、相手を信用しないといけない、という関係です。この関係は、どのように成り立ったのでしょう。ともに神様を主として信じ、告白しているということしかありません。

 今も同じです。キリストを信じる人が、「キリストを信じているから」という理由でその人を信じる、それはあり得ることなのです。私たちが「聖徒の交わりを信ず」と使徒信条において確信するのも、お互いに、他にいかなる条件もなく、ただキリストを信じているからです。教会の歴史もそうでした。

 

トップ アイコン トップ アイコン
トップページヘ戻る 説教集へ戻る






直線上に配置