主日礼拝では・・・・
「ルカによる福音書」から「良き信仰者」を自称するパリサイ人と、「罪の女」と言われていた女性の信仰について一緒に学びました(『ルカによる福音書』、7章36節以降)。このように書き出しますと、「罪の女」という言葉が気になりだします。何か悪いことをしたとか、悪を行なう、という意味ではないのです。今の表現で、なるべく近く言い表すなら、宗教上の意味で「なっていない」とか「けがれた」という意味に近いでしょう。これに対して、パリサイ人と言われた人々は、宗教上の清さに対する、肩書きのようなもので、彼らは信仰生活における指導者でもありました。
さてこの場面ですが、この女性にとっての、時と、行いということです。まず、時ですが、私たちにも、時があるのではないでしょうか。何時その時がやってくるか分かりませんが、日頃蓄積してきたものを全て注ぎだす、時というものがあるのではないでしょうか。このときには、全力を尽くし、出来ることの全てをするのです。旧約聖書を見てみますと、モルデカイにエステルは、「このときのためにこそあなたの毎日はあったとだ」と告げられましたし、新約聖書では、この箇所だけではなく、ベタニヤ伝道で、イエスが評価されたマリヤのように、聖書全体にわたって、与えられた時を最も有効に用いた人々の物語が何箇所もあります。私たちにも与えられた「今が時」という「時」があるのではないでしょうか。
そして、次は行いについてですが、私たちは、今が時であるということはわかっても、何もできないでいたり、なすべきことを考えているうちに、時をのがしてしまうということもあるのではないでしょうか。
この女性もそうであったように、「できる限りのことをする」、これが聖書の答えのようです。
聖書研究会では、『テモテへの第二の手紙』4章から学びました。とても有名な箇所です。
さて「時がよくいても悪くても・・・」(2節)は教会の姿勢として誰でもよく分かるところですが、問題は、時が悪いと思えたときです。私たち自身が、耳ざわりの良い言葉を求め、そして語ろうとするのではないでしょうか(3節)。そして、罪について語らず、訓練を好まず、居心地の良いコミュニティーのみを求めるようになるでしょう。
今は、良い時でしょうか、悪い時でしょうか。どちらと思うかは、私たちが今、どのような教会を理想としているかによって知ることができるでしょう。常に今が「良い時」でありますように。
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