『一人のために』
(ルカによる福音書15章1〜10節)



 ≪先週の聖書から≫
    先週、一人を残すことの絶対にない「神様の愛」について、「ルカによる福音書」15章から聞きました。主はこの三つの、神の愛についてのたとえ、すなわち、失われた最後の一匹の羊を探すために、他の九十九匹を安全なところ(すなわち教会)に残して、全力をあげることに似ている、また、失われた最後の一枚を発見するまで、部屋中をはきまわって捜すに似ているということ、そして、クリスチャンでなくても知っている有名なたとえ、放蕩息子の帰るのを待つ父親のたとえに似ている、というものですが、このところから神様の愛についてみてみるとどうなるでしょう。最初のたとえは、まだ神様を知らない一人一人に対する神様の愛、二番目のコインのたとえは、教会の中に何か欠けているものがないかを、最後まで捜し、私たちに教えてくださる神様の愛、そして放蕩息子のたとえは、一度教会にいたのに、自分の意志で教会を離れていこうとする人を迎える神様の愛を語っているのではないでしょうか。私たちも、周囲を見回すとき、自分が最後のまだ見つかっていない一匹であることを感じたり、九十九匹の(すなわち最後の一匹を迎えて百匹になろうとしているのですが)役割を果たしているのだ、ということを感じるのではないでしょうか。聖書はまたこの箇所で「天の喜び」について示しています。7節には、「九十九人の正しい人のためにも勝る喜びが、天にあるであろう」といっています。私たちの教会に讃美の喜びがあふれるとき、教会に直結している天にも多いなる喜びがあるのです。マタイによる福音書16:19では「地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは天でも解かれる」とあります。ルカの15:1は、収税人や罪人など・・・、と書きはじめていますが、ここに神の愛を見ることが出来ます。私たちの教会は、一人でも多くの人が、加えられることを望みますが、ユダヤの古い律法に縛られている人々は、特にその宗教上の指導者は、けがれている、といわれている人々や、罪人だとされた人々を一人も仲間に入れないことに努力しました。イエスははご自身の御国が、このような閉鎖的なものではなく、どのように見えている一人のためにも、最後の一人の救い至るまで、開かれているのだと、このたとえをもって、教えておられるのです。

 

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