『御霊によって知る』
(コリント人への手紙T 2:1〜5)



 ≪先週の聖書から≫

    先週の礼拝は、「コリント人への手紙T」から2:1〜5が開かれ、ここに書かれている「御霊によって知る」というパウロの言葉についてともに学びました。

 パウロは福音を語るとき御霊によって知ること以外、この世のいかなる知識によっても語らないといっています。古代からコリントは、文化的にも世界の一大中心地で、哲学も芸術も発達したところでした。ここで、パウロも同じ土俵に立って、哲学的な方法でキリストの事実を語ることも出来ました。また旧約聖書の視点に立って「来るべきメシヤ」について語ることも出来たでしょう。しかしパウロは、信じない者にとっては愚かに思える「十字架の言葉」を用いて語ることを選んでいるのです。これは一見、不特定多数あるいは退廃への道を進み十字架を忘れつつあるかのように見えている教会に対しては、効果的な方法とは思えないかもしれません。しかし、あえてそのような方法は取らなかったとパウロは宣言しています。それではどんな方法をとったのでしょうか。御霊によって、十字架の福音を知るべきであると勧めているのです。主イエスの十字架のあがないの事実によって、我々の罪も、自分では如何ともしがたい死からの救いも、キリストの義に置き換えられたという、聖なる交換の事実を忘れてはいけないといっているのです。確かにコリントの教会も、恵まれており、いろいろの問題を抱えていたにせよ、キリストの教会です。けれど十字架を忘れて行ったとしたら、罪を忘れて行ったとしたら、そこには信仰告白も悔い改めもない、最も危険な状態が待っているようです。
 
 私たちの教会はどうでしょう。悔い改めを忘れ、罪を忘れて楽しい教会になってゆく道を求めようとしたら、その楽しみは福音から離れ、逆に「罪に死んでいること」を思い知る教会、「永遠の生命」を忘れてゆく教会が待っているのではないでしょうか。パウロは不安であったと言っています、智恵を用いず、神の証明に頼ったのが不安であったといっています。文学的、哲学的方法を用いることは出来たでしょう、しかし信仰の原因は神にあるという真実から離れることはしなかったのです。しっかりとした教会、この基準がもし必要だとしたら、人数で測るのでもなんでもなく、教会から離れないという基準を用いてもいいのではないでしょうか。揺らぐことのない「神の証明の力」からです。

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