『主にこたえる教会』
(ルカによる福音書10:17〜24)



 先週の礼拝では、『ルカによる福音書』1017-24が開かれ、私たちの教会について御言葉から学びました。聖書には七十二人の弟子たちが遣わされたとあります。また帰ってきたとあります。このように私たちの群れは、主にあって、十二人の弟子から徐々に増えていっているのですが、それらの人々、私たちは教会に帰って報告を申し上げるのです。遣わされた人々は、十八節にあるように、どんな悪の力も御名によって戦えば、怖くないことを経験しそのことを主に報告しています。しかし「確かに悪の霊の敗北を私は見たが、そのことを喜んではいけない」というのが主の言葉でした、「むしろ」あるいは「そうではなくて」、あなた方の名前が天に書き記されていることを喜びなさい、とおっしゃっているのです。七十二人の遣わされた人々と主の視点が違っていたのです。七十二人はこの世の様々の災いや、悪が主の名によって癒されるのを経験しました。おおいに喜ぶべきことでした。しかし主の視点は、地上の戦いが、天にあることを見ておられたのです。この意味において「よい業」を喜んではいけないとおっしゃっているのです。私たちが御言葉で武装し、主の義に一歩近づいたとき、忘れてはいけないことがあります。天に名前が記されているということです。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう(マタイ1619)とあるとおりです。天国との関係を抜きに考えると、マタイ1721にあるように「しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない」とうことになって、私たちの力によってはなんともならないことになってしまいます。主の御名によって祈るとき、それは、教会の御国に於ける有様も、示しているのだということを忘れずすごしたいものです。

今週から祈祷会では、順番にメッセージを行うことになりました。それぞれの兄姉が信仰の証をするとき、また説教を行うとき、その姿は教会の天国における姿をうつしているのであり、私たちの教会も、天の御国にその名が記される、祈りの兵(つわもの)の群れでありますように、これからも、あり続けたいものです。私たちの教会の毎日も「教会の歴史」なのではないでしょうか。

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