『聖霊のたまもの』
(ルカによる福音書11:1〜13)



 
先週の礼拝では、教会の誕生日とも言える、ペンテコステの出来事について、いのりと教会について聖書から学びました。

「ヨハネがそうしたように」とあるのは、断食をしたりそのほか祭儀といえるものが多く、弟子たちもその作法を期待していたようです。しかし主イエスの口から出た言葉は、「天のお父さま」と呼びかけることでした。つまり神様に向かって父なる神と呼びかけることから始めなさい、というのが答えだったのです。これは驚くべきことでした。神に向かって父というのですから。それほど今私たちは、神様のそばにいることになります。

 つぎに、願いをあるがままに申し上げるがよろしい、とイエスはおっしゃっているのです。このようになされた祈りは現実的なものであり、教会において、私たちの前に実現されてゆくことになるのです。使徒行伝4:32以降にその記録を見ることができます。ある教会の姿ですが、持ち物をみなが共有にし、そこには誰一人貧しい者がなかったとあります。この教会の姿をみてみると、まず信じた者の集団であったと記されています。

 次に分かることは、恵まれた者の群れであったということです。さらに、教会を信頼していたということが分かります。逆の言い方をすると、教会が全てをゆだねるに十分に信頼されていたということができます。

 さて、私たちの教会はどうでしょうか。このように信頼される群れでしょうか。主イエスは、このように祈りというものは、現実的な、手を出せばそこにあるようなものだとおっしゃっているのです。日々奉げている「主の祈り」が遠いもののように思えたとすれば、私たちの教会は、反省すべきなのです。

 主に願うとき、願いを全て申し上げればよいといいますが、そう簡単にかなうとはかぎりません。願いがかなうまでに、果たしてその願いが正しい願いなのかどうか吟味することができます。つぎに、訓練をすることができます。そして解決されることを私たちは、現実に知るのではないでしょうか。

 祈りは神様との会話、あるいは、信仰を持つ者の呼吸のようなものと、とよく例えられます。ですから、自ら神様の力を制限してしまうような祈りも、反対に、小さなことだから、祈らずにすむだろうというのも、正しい祈りとはいえないようです。
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