『天国への備え』
(マタイによる福音書26:1〜13)



 先週の礼拝では、「マタイによる福音書」25:1〜13が開かれ「天国へのそなえ」とは何を学びました。
 
 主イエスは、来るべき天国について多くのたとえを用いてお話になりましたが、ここでは、花婿のやってくるのを待つ祝宴の有様を喩えに用いてお話になっています。聖書には思慮深い女性たちと、そうでない女性たちについて描かれています。五人は思慮において深かったのですが、これは優秀であるとか、能力があるとかという意味ではありません、ただいつも信仰生活において神の国がいつやってきても良いように準備をしているかどうかということです。そして実際、この神の国とやってくる時については明らかにされていないのです。

 日ごろは同じように見えていても、思慮深い女性たちは、備えをしていたのです。この喩えの中では、思慮深い女性たちは無くなった時のために、ランプの油を用意していました。そして「花婿の到着だ」という声がしたとき、それはもう真夜中だったのですが、思慮深くない女性たちの手にしたランプの油はもうなくなりつつありました。これに対して思慮深い女性たちは、「油を買い求めたら」という最も適切なアドバイスをしているのですが、そんなことをしているうちに花婿の到着には間に合わなくなってしまいました。

 聖書の記述を見ますと、たとえ自分のものがなくなったにせよ「助けなさい、施しなさい。与える者は幸いである」ということが書かれていますが、それは、自分たちに管理がゆだねられている事柄に関して、例えば食べ物とかお金とかについてのことで、主の訪れに対しては、代わって備えることが出来ないことを示しています。如何に愛する人々であっても、代わって信仰を持つことが出来ないことを示しておられるのです。代わって「目を覚ましている」ことも出来ないのです。

 私たちも、主の前に立つときは一人ですし、私に代わって、信仰を持ってもらうことは出来ません。この週も信仰から離れず、とりなしの祈りが出来ますように





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