5月11日
『神様の声を聞いて』
(出エジプト記16章4節〜16節)
『出エジプト記』16:4〜16が開かれ、「いのちのパン」をもって、神様がイスラエルの人々に臨み、今も変わることのない愛をもって、彼らを砂漠の只中でも、その生命が守られるようにされたことが学ばれました。 このように、主なる神は、イスラエルの民にご自身が奴隷の地パロのエジプトから、救い出されたことを示されたのです。あれほど嫌だった奴隷の身分から解放されたにもかかわらず、イスラエルの人々は、不平を言い、つぶやき、モーゼやアロンに、「あなた方はこの砂漠の中で私たちを死なせてしまうつもりか」と言いました。 このとき与えられた天からのいのちのパンはマナといわれ、毎朝必要な分だけ、そして十分なだけ彼らに与えられましたし、主が守るように律法の中にお命じになった安息日の前日には、きちんと二日分与えられました。この不思議な食物は、彼らが約束の地、乳と蜜の流れる地、カナンに入るまで途切れることなく彼らの命のために備えられました。 しかし、彼らのつぶやきは途切れることがありませんでした。すなわちそこに生命のパンがあるにもかかわらず、取ることを拒否してしまったのです。 裁きではなく、いのちの保障をもって神は彼らに臨まれたのです。今も私たちは「それを取りなさい」といって、神様が私たちにいのちのパンを用意してくださっているに、ただ、取ることだけが命じられているのに、そこにパンがあるのを忘れ、何一つ楽しいことはない、といってつぶやくようなことはないでしょうか。 神様の愛はこのようなものなのです。 今日は母の日ですが、父や母の愛も神様が与えてくださっているのではないでしょうか。恐らく「何故あなたは子供を愛するか」という問いに、完全に答えられる人は少ないと思います。感謝をするのにふさわしい愛だと思います。「私の子だから」という理由しかないと思います。 神様の愛も同じです。神様は私たちを、愛する大切な人々だからという理由でいつも見守り愛してくださっているのです。 神の愛のもとに、いのちのパンにあずかろうではありませんか。 |