4月20日 
『復活にあずかって』
 (ヨハネによる福音書20:1〜10)

礼拝式では「ルカによる福音書」241335をとおして、主イエスが復活され、エマオへの道で弟子たちに現れたところから御言葉をいただきました。

 
その日と書き出してありますが、「その日」とはまさしく、主が復活されたその日に当たります。しかし弟子たちにとっては、全てが終わった日をも意味していました。復活を知らなかった弟子たちにとって、十字架は、信頼していたメシアの出来事が裏切られたことを意味します。弟子たちは故郷に帰る途上にあったわけです。ここに主は現れてくださいました。

 主の現れ方と、弟子たちの変わりようを見てみましょう。主は、決して、栄光の輝かしい、立ちはだかるような現れ方はなさいませんでした。静かに旧約聖書の話をされたとかかれています。そして、エマオという弟子の一人の故郷に着くまでは、それが誰かも分かりませんでした。ここで主は、本当は引き止められ、もてなされる旅人であったのに、弟子たちにパンを裂いて分かたれたとき、すなわちもてなされるはずの方がもてなす側に反転して立たれたとき、それが主の復活の栄光の姿であるということが弟子たちにはっきりと分かったのです。私たちの前で主イエスは、今日どのような姿で現れてくださっているでしょうか。

 もうひとつの大切なことは、弟子たちが変わったということです。勇んでエルサレムにとって返すことになりました。主に出会った人々は全て変えられるのです。博士たちも主の誕生に出会って、「別の道」を通って帰りましたし、羊飼いたちは、御使いたちの告げたことが本当だったので、恐れていたものから、賛美しつつ人々に告げ知らせるものに変えられたのは、私たちの知っているとおりです。

★夕礼拝、祈祷会では、主のベタニア伝道について学びました。主イエスの、最後の旅に属するところです。「マルコによる福音書」143-11です。ここで私たちにとって最も大切なのは何か、考えてみたいと思います。勿論それは人によって違うと思いますが、誰でも大切にしているものはあります。ここで問題になるのはそれをどのように使うかということです。最も意味のないのは、使わないことです。

 またここで、「もっと良いことに使えたのに」と女性を叱っている人々も、決して貧しい人々のために三百デナリを使うようには見えません。しかし女性は出来る限りのことを、今をおいては他にないと考えて使いました。私たちは大切なものをいつ何のために使ったらよいでしょう。



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