4月13日 
『互いに愛し合うために』
 (ヨハネによる福音書19:23〜27)

先週の礼拝では、主の十字架について、ヨハネによる福音書(1923-27)から御言葉に与りました。特に十字架上でイエスが口にされた言葉についてききました。
 
 最後に主は、「全ては終わった」と、すなわち救いの完成を宣言されましたが、その前にご自身のみ父への祈りと、その前には「彼らを赦してやって下さい。彼らは何をしているのか分からないのです」と、とりなしの祈りをされました。また、信仰深い女性たちによってではなく、ローマの兵卒によって、詩篇の言葉が成就したことが記されています。

 私たちもまだ主を知らなかったころに、救いを予告するような不思議な導きを経験しているのではないでしょうか。また今も主は、私たちに、弟子たちにそうされたように「これがあなたの母(あるいは父)です」と隣の兄姉を指差しておっしゃっているようです。それだから教会は「互いに愛し合うこと」を大切にするのだといえます。世界最大の「とりなし」といえるでしょう。

16日のエステルの会では、マルコによる福音書1466-72から「人間ペテロ」について学びました。この箇所に限って、ペテロは、いくじなしで、弱い人間のように語られるときも多いのですが、私たちはそんなに強いものではありません。その弱虫のペテロに対してイエスは「あなたを教会の基としましょう」とおっしゃいました。私たちもその教会を担っているのです。そして、ペテロのように、鶏が鳴いたときに、後悔することが出来るようになりたいものです。ペテロはなんと優しく身近な存在でしょう。

祈祷会ではヨハネによる福音書1518-25からの御言葉に与りました。「ゆえなき憎悪」について耳を傾けましょう。イエスは弟子たちと教会にこうおっしゃいました。「この世の価値観と主にある永遠の命に関する価値観とを併せ持つことは出来ない」と。またその両方に仕えることも出来ないともおっしゃいました。実に簡単なことです。よく分かっているつもりになっている私たちかも知れません。けれど、いかに難しいことでしょう。私はこの箇所を読むたびに、小説「赤と黒」(スタンダール)を思い出します。この世に支えられて教会が立つとき、愛を踏みにじることになるのです。


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