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   日本聖書協会の思考パターンの推論に関する推測
「日本聖書協会」の聖書といえば、「口語訳聖書」、「新共同訳聖書」が考えられる。この「表紙」に一つの聖書刊行に関する神学的経緯を見ることができる。
「神の言葉すべての人に開かれて」

「神の言葉すべての人の希望」

がそれである。前者が「口語訳」、後のものが「新共同訳」のそれぞれの地球のロゴマークの下に書かれた言葉である。この様に意図的に変えられたのには何らかの、神学的、聖書刊行に関する議論があったのである。そうでなければ、変更されることもなかったからである。
 意図して、変えられたか。意図せずに変えられたか.については。多くの推測が成立する.
確かに言葉という場合、神の意志、神御自身の思い、聖書が「ヨハネ福音書」の冒頭で、あかししているように、神自身をも意味することが多い.

 ロゴスという意味が込められている。けれどもこの言葉づかいは、「備えられて」、あるいは、「用意されている」という意味が込められているが、理解に若干の聖書理解が必要である。「開かれて」と言う場合、行為者は神であり、「希望」と言う場合、その希望を持つのは我々であり、行為者は我々である、という意味合いが強くなる。
 神の思いはすべての人を拒まない
 という意味だろうけれども、「すべての人の希望」となったときに、上のように書き下すには、少しばかり困難なものを見出す
 神のご意志はすべての人の将来の希望の保証のためにある
この問題意識は無用なものであろうか! これが発題である? 
 また「文語訳聖書」に関しては「希望」になっている。これが「聖書表紙比較学」事始めである。ここに手にした聖書は、かなり新しく、出版されたものであるので.このロゴは、役の種類に依拠しているのではなく、つまり、口語訳は「開かれて」であり、文語訳と、新共同訳が「希望」を、神の言葉に当てはめたのではなく、訳された時によらず、出版されたときによると言う推測が成り立つことになる.
 
 
 

            らてん語
    以下
   ルター訳聖書とその周辺
            (1522:「ルター訳聖書」見開き)
 英語訳聖書の歴史を簡単に見てみることにしよう。
 ルネサンス:ベネチアは経済的に発展し、14〜15世紀に欠けて、メディチ家の影響もあり、絢爛たるルネサンス美術の花を咲かせた。ミケランジェロ、ダ・ビンチ、ラファエロなどは極めて親しみぶかい存在である。
 1453:コンスタンチノーブルが、回教徒の手にななると、多くのギリシャ人学者が、ギリシャ・ローマの古典を携えて、イタリアに逃れてきた。現世肯定的な新文学がますます盛となり、その代表格が,ペトラルカとボッカチオである。この現世主義は、信仰面にも影響を及ぼし、メジチ家出身の教皇レオX、サン・ピエトロ大聖堂建設資金調達のために、免罪符発行を許可したことが、宗教改革の導火線となったことは周知のとおりである。
 アルプスを越えたルネッサンスの波は、フランスにラブレー、モンテーニュ、またオランダにエラスムス,イギリスにモアなどを産み出した。北のルネサンスにおいては、古典研究で培われた力が、聖書研究に向けられることになった。
 1488-90にイタリアで学んだ、グロウシンは帰国後、オックスフォード大学に、ギリシャ語の講座を開設した。グロウシンとともにイタリアに学んだコレットも、1496−1504年にかけて、オックスフォード大学で、パウロの手紙講義を行ったが、それは、教会の定めた解釈を解説する従来のものとは、大いに趣をことにしたものであった。原典の歴史的コンテクストを重視した斬新なものであった。エラスムスは、モアの友人でもあり、イギリスにも数回滞在したが、1511-14の滞在期間には、ケンブリッジ大学で、ギリシャ語及び神学の講義を行っている。エラスムスの講義はコレットに刺激されたものであるといわれているが、それに加えて,このときの講義、およびヒエロニムスと新約聖書のギリシャ語本文研究をもとに、ギリシャ語本文と,自訳のラテン語を平行させた、「新約聖書」を編集したことである。
                     1516、以後1522、1527、1535に重版
 このギリシャ語本文が、ルターのドイツ語訳新約、ティンダルの、英訳新約の底本となるのである。
  下は、エラスムス校訂「新約聖書」【1516】
  次に,宗教改革の時代に進むことになる。1505、エルフルトのアウグスティヌス会の修道院に入り、1507年に聖職についたルター(1483-1546)は1511、ウィッテンベルクに移り、翌年神学博士となったが、改革の中心的役割を担った一人であった。1515年同大学において「ロマ書講解」をおこなう。そして、sola scripta の考えを確立してゆくことになる。そして、1517、強い疑問を抱いていたローマに対して、10月31日、九十五箇条の提題(ラテン語)を、城壁の壁に記したか,書面にしたか,何らかの形で発表せざるを得ないことになった。十字軍の費用調達に始まった免罪符の発行は、たびたび行われ,サン・ピエトロ寺院建設にもなされた。一般的には,この免罪符に集中して捕らえられているが、この提題は、教会そのものあり方を問うものであったといえる。
 1520、レオ]から破門されたルターは、翌年ヴォルムスの国会のあと、監禁されることになるが。ここで、先のエラスムスのギリシャ語聖書から,ドイツ語聖書を訳し(1522)、翌年には,ヘブル語から「モーセ五書」を訳出し、1534年までに聖書すべてのドイツ語訳を完成させた。
  アウブスブルグ信仰告白(1530)や、ウェストファリアの和議(1648)についても触れなければならないが,中心のテーマは、聖書翻訳であるので先に進むことになる。
 印刷術と聖書は情報処理=メディア(情報媒体)論からも避けて通れないことである。
 グーテンベルク(1399-1468)の印刷術(可動活字:movable types)は、本質的には19世紀にまで及んで、使用された、中心的技術であり,本質的技術はそのままであった。「御言葉の抜き刷」や「戒め,死の備え」等の形で,最初は刷られていたが、東洋から伝わった製紙術とあいまって、ルネサンスにも大きな影響を与えたことは確かである。そして最初の対策は、グーテンベルク聖書=42行聖書と呼ばれているウルガタ聖書であった(1455?)。これには異論もいくつかあるので、グーテンベルクの名を避ける向きもある。
 ストラスブルク(現フランス領)とチューリッヒは出版活動を通して、それぞれルター派とツイングリー派を助けることとなった。なお、エラスムスの新約聖書を印刷したのは、バーゼルのフローベンであった(1516)。
  印刷術は,イタリアにおいて特に、ローマ法皇庁の要請もあり発展したが,ヨーロッパ全体に広まったといってよい。 
 パリの印刷業界を代表したのが、学者でもあった、エチエンヌ父子である。父ロベールの代表作は Thesaurus linguae latinae (1532) である。
 ヘブル語旧約聖書(1539-41、改定:1544-46)
 ギリシャ語新約聖書(1551)
を印刷したのも彼であった。また、聖書に,章と節の構造を持ち込んで整理しようとしたのも彼である。カルヴィニストの彼は、庇護者フランソワTが、1547死去すると,ソルヴォンヌの神学者に迫害され、活動をジュネーヴに移した。ロベエールの子アンリUは、ギリシャ語辞典 Thesaurus linguae graecae でしられる(1572)。
       したがって
 「この内容は大切だから長い章になっている」などいえば,きわめて主観的なものになることになっる。
 また、「ヨエル書」など、この場合は3章か4章かだが、聖書によって異なることは,同じ人によって二度なされたか、あるいは別人によって手が加えられたことを意味しているだろう.
 イギリスについてはこうである。1474、ギャクストンは、自ら訳出した「トロイの木馬物語」等数多くを出版したが,聖書や信仰所には手を触れなかった。「祈祷書」を印刷したのは、彼の弟子の王室誤用印刷業者であった,フォークスであった。その後任がビンソンであるがあ、ヘンリー[のルターに対する反駁所を印刷したのも彼である。ロンドン書籍出版組合が、メアリ女王から勅許状を授けられると,統制機関のような働きをもつようになった(1557)。
  ティンダル(1494?-1536)
 次に話を、ティンダルに薦めることにっする。
 1496-1504コレットが原典を用いて、パウロの手紙を講じて聖書研究に新風を吹き込んだが、ケンブリッジはオックスフォードよりもギリシャ語研究においては進んでおり、White House tavern に集まるルター主義者は有名であった。1511-1514にかけて、ケンブリッジで研究したエラスムスは、先に述べたように1516新約聖書を出版している。チンダルもその影響を受けている。
 1522ルターがドイツ語聖書を出版したことは、チンダルにも知られたが、ロンドンにまで出向いた彼を待っていた状況は、ヘンリー[が、ルターへの反論(1521)Assertion of the Seven Sacramentsの公になった時代であった。ここでも彼の英語訳聖書の夢は実現することがなく,1524大陸を目指すことになった。二転三転した結果,1526印刷業者シェーファーのもとで,完成することになった。このウォルムス版は、原典ギリシャ語からの初めての英訳聖書となった。しかも新約聖書の完全英訳の最初でもあった。翻訳者は一度もイギリスに帰ることはなかったがその後、イギリスに大量に持ち込まれることになっていった。印刷場所によってケルン版等が知られている。ヘンリー[や、教会当局は、英訳聖書を白眼視していたが、「鋤をとる少年にも聖書を」という、ティンダルの願いは広まってゆくことになった。
 ティンダル訳はアントワープでも海賊版が印刷されたし,ウォルムス版の需要は高く、1530年までに6版15000部になっているといわれる。この間,ロンドンの主教タンストールは英訳聖書の焼き捨てに務め、英訳聖書所持者の破門を布令を出すといったことも経験している。ティンダルの「キリスト教徒の服従」は、ローマの権威を直接に問題としたので、当時離婚問題で、ローマ教皇と対立していた、ヘンリー[の手に入ったとき彼を喜ばせたという。
 新約聖書に続いて,ティンダルは1527年あたりから、旧約聖書に取り掛かり,1530年,ヘブライ語からの初めての英訳になる、「モーセ五書」を完成させた。
ここでは、創世記3:4で、蛇がエヴァに向かって、
 tush ye shall not dye.
と俗語で話し掛けたり、おなじく39:2で、ヨセフを、
 a luckie felowe,
と訳し、出エジプト記32:28で、金の子牛を作ったイスラエル人5000が殺された,とあるところの注に,「The popis bull sleeth moo tha' Aarons calfe,,,,教皇のそれのほうが、もっと多くの人を殺す、、、」と記すなど,反カトリックの色彩の濃いものであった。
 これが、創世記の初めの部分で,節区分は,Monbertによるもので,ここでは文中にかかれている。五書に続いて、1531、「ヨナ書」、さらに、ヨシュア記、歴代史下までを、完成したが,この出版は、ティンダルによらず,マシュー聖書に編入されることになる。1534年には、創世記の改訂版、お呼び新約の改訂版(決定版)が出されることになる。
 
   タンストールの友人でもあり、プロテスタント運動に批判的であった、トマッス・モアの『対話』には、次のようにかかれている。

 キリスト教会のpriest(司祭)をrヒンダアルは、seniors(年長者)と訳している。また教会を常にcongregationと呼び、charityをloveという。ところがこれらの英語の名称は、原義を正確には表しておらず、それえにまた(事情を良く考えてきてみると)ティンダルが名称を変えたことには悪意が見られる、・・・。このseniorという英語には何の意味もなく、それはもともとフランス語で、英語では英語では他人を軽蔑して’あなたさま’と呼ぶときのように、人をバカにしたときに用いる言葉である。もし、ティンダルがsiniorをラテン語からとったつもりであれば、ラテン語のseniorにはprriestの意味はなく、ただ「年長の人」を意味するに過ぎない、・・・。
 かくしてティンダルは、pristをpriestと呼びたがらず、自分ではしりもせずどうでもいい新語を導入しようとしていることがわかる。
                      『対話』、Bk III,chap.8
 

また、ekklesiaについては、エラスムスも,congregationalと訳し,「使徒行伝」の意味にも合致している。モアの論法は、神学的には捕らえにくいものではある。
 また、例としてchurchを見てみると、ギリシャ語はエクレシアであるが、もともとアテネ市民の公式の集会を意味しており使徒行伝19:30でそのように用いられている.これをティンダルはcongregationと訳している。エラスムスも、ラテン語のcongregatioと訳している。問題はカトリックの,「教会の伝統」と改革的な「聖書のみ」の対立にあったようである.そのほかにも、CharityとLoveなど、多くのキーワードが設定されるが,OED:オックスフォード英語辞典などを参考にすると面白い.
                特にここで,最後の頌栄などは、いまのNestle版等では、脚注に格下げされている。
 ついでに現在の日本で主にもちいられている、聖書は次のようになっています.
  【口語訳】

6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
6:11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
6:13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
 【新改訳】
6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
 【新共同訳】
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、
  6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、
  天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、
  わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、
  悪い者から救ってください。』
           というぐあいです。

 
   Load, open the King of England's eyes.
  これは、ティンダルの殉教死に際する言葉であるが、それ以前にティンダルの、英訳聖書は非常に大きな影響をその後に及んで与えることとなった.
 peacemaker
  atonement
  filthy lucre
  longsuffering
  mercy seat:ルターのGnadenstuhl
  Passover
  scapegoat
  shewbread:ルターのShaubrot
  tendermercies
等断片的にも、多くの英単語の生みの親のような存在であると共に、A.V.欽定訳の八から九割が、このティンダル訳によっている。
 1533年以降アントワープに住んでいたティンダルは、1535年5月21日、ブルッセル北10kのウィルウォルデ城内の、the state prison of the Low Countries,に捕らえられ、寒さに耐えながらも、へブル語の学習に勤めていた.ヘンリー[との和解の動きもあったが,1534年,ローマカトリックから離れた時期と重なっている.クロムウェルなどによってもティンダル救出の試みはなされたが、神聖ローマ皇帝のカルルX等の力もあり,1536年、ティンダルは裁判で,異端の判決を受け,聖職の身分も失うこととなった.「国王の目を開かせよ」は、認可のもと出版された,マシュ―訳は、ティンダル訳そのものであった.
 

  カヴァディール訳,マシュ―訳、大聖書
  チューダー朝第2代にあたる,ヘンリー[の、アン・プリンとの再婚問題について,ヘンリー[は、キャサリンとの離婚が教会法にかなって合法的であることを主張した。
ウィクリフなどの活躍した時期と重なっている。
  アンプリンとの再婚を計った。王の意を受け枢機卿ウルジーが、1527〜ローマの教皇庁と交渉するが、教皇クレメントZの大きな影響力を持っていた、神聖ローマ帝国カルルXが、離婚されたほうのキャサリンの甥であったことなどもあり、交渉は難航.ウルジーは失脚。次いで中心的な座を占めることになったトマス・クロムウェルはクランマーと協力しカンタベリー大司教区会議や議会の承認を取り付けて、ヘンリーとキャサリンとの離婚およびアン・プリンとの再婚を公式なるものとした。それにあくまで反対していたトマス・モアは、1532大法官を辞し、1535反逆罪のゆえにロンドン塔で処刑された。
 かくして、1529以後イギリスは次第にローマ・カトリックから離反し1534ついに、首長令:Act of Supremacyを施行し、国家元首が教会の教会の首長になることが定められた:the Church of England。国教会の成立にともない、1536イギリス国内の小修道院、ついで1539には大修道院を没収したが、当時、国内の土地の三分の一はカトリック教会が所有していたと言われる。
 カヴァディールの英訳聖書が出版されたのは、国教会が成立した翌年1535のことである。

 マイルス・カヴァディールはヨーク州北部に生まれ、ケンブリッジ大学で哲学と神学を学び

  
 

  

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