美ら通信 第9号 2002年6月5日発行
目次】



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 美ら日記(10) 
「沖縄のリズム」
  5月18日。名護の若者たち15人とヌーファのじんぶんの里に行く。1泊。
 ことばの端々やイントネーションに名護人(ナグンチュー)が感じられるが、沖縄の動植物や海の生き物に関する知識・関心は本土の若者と全く変わらない。今はさかりの伊集(イジュ)の花の名前を知っていたのはたった一人。沖縄の本土復帰にともなう標準化・一体化・系列化は沖縄の若者に着実に根をおろしている。75%の沖縄県民が本土復帰を「よかった」と感じているという世論調査は、あと数年もしたら、この種の発問そのものがもはや成り立たないことを露わにするだろう。
 しかし。夜になり呑むほどに、若者たちのかもし出す所作・やりとり・リズムのなかには、「30年」などという人為的区切りをはるかかなたに押しやる文化的遺伝子がほの見える。30年かそこいらで消えるものなど消えるのが健康というもの。黒潮のはぐくんできた遺伝子はアワモリとともに巨きなうねりとしてにじみ出てくる。「本土復帰」が自明のものであるという意識の数百倍という相(層)で、沖縄の文化的遺伝子は受けつがれてゆく。
 「コシイシよー。なんかちがうんだよナー。なんでかネー。」
 「シムサー!イヤサッサー!」
 「ハ、イヤー!」
                                           (コ)


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真志喜トミのトミコーナー
 「幸せな一日」
 予定地に民宿兼ユンタクどころが建てられなくて(道路の関係で)、しやない車庫でも改造するかと今車庫の半分を子供たちの遊び場として改造してもらっている。
 5月26日、その大工さんを案内人として女性たち4人がちょっと遅い浜下りをした。お天気も良くて風もさわやか。リーフへと向かう小船から見るヌーファの海は、透きとおっていてサンゴや熱帯魚が美しい。大潮の日で地元の人たちもたくさん出ていた。遠くで釣りをしているミサおばぁの姿も見えた。大工さんの「今日は何が食べたいか」の問いに、みんないっせいに「ウニ」と答えるガチマヤー(くいしんぼう)の私たち。リーフに着くや淳子さんとひろえさんはさすがに海慣れしていた。どんどん(私からみて)ウニやシャコ貝を獲っていく。美恵さんと私は、大工さんに教えてもらって獲りはじめるが、海草やサンゴを身につけて上手に隠れている“食べられるウニ”は見つけることができず、そこらじゅうにうようよいる“食べられないウニ”ばかりに目がいってなかなか本物を獲ることができない。それでも美恵さんはウニやシャコ貝を次から次へと獲っていた。私はと言えば、ウニを5個とテラジャーやサザエをいくつか獲って満足し、あとは熱帯魚と遊んだりサザエの赤ちゃんの美しさに見とれてボケッとしていた。するとそんなふうにしていたら、潮溜まりでドデンと転んでずぶ濡れになってしまった。私の頭の上には、2日前の晩、ダンプよりも大きい私のおしりの犠牲となったメガネがのっていた。ギャーと悲鳴をあげたメガネは、フレームはひしゃげレンズははずれるという重傷。なんとか治してかけているものの、右のレンズは目から5センチもはなれて顔がゆがんで見え、焦点があわない状態。転ぶのもあたりまえ!ハッハッハ!これで海アッチャーをするからトミさんはエライ!!
 大きな潮溜まりにウニをわって投げ入れると、どこにかくれていたのか大きな魚が出てくるわ出てくるわ!水族館よりはるかにおもしろかった。
 5時間近くたっぷりと海を楽しみ、帰りは嘉陽の大工さんの庭先でビール片手にウニ丼としゃれこみ、シャコ貝のサシミ、その他たくさんの貝に4人の顔はゆるみっぱなし。あ〜幸せいっぱいの一日でした。



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山原のくらしと自然ものがたり                            文:アンナ
 梅雨を告げる花「イジュ」がやんばるの山々を白く彩っています。この時期はイジュの他にもひときわ「白」が目立って見えるように思います。純白に近い真っ白な葉のように大きな萼をもつコンロンカ。種をさわった手で目をこすったりすると目のまわりがはれることから「ミーフックヮーギー」(目がふくれる木)と呼ばれるミフクラギ(別名:沖縄キョウチクトウ)など、いたるところで「白」と出会います。
 さて、「やんばるのくらしと自然ものがたり」第1回目は、やっぱりなんといっても沖縄の「白」の代表であるイジュと、嘉陽の次郎おじぃ(宮城次郎さん・65歳)とのものがたりをお届けしましょう。

「イジュと次郎おじぃ」
 次郎おじぃは嘉陽生まれで嘉陽育ち。海をこよなく愛する、優しくて、そしてちょこっとハジカサーする(シャイな)おじぃ。嘉陽の海を知りつくしたウミンチュ(漁師)であり、大工さん(本業?)であり、ハルサー(農家)。とにかく仕事が終わると夕方には毎日、大好きなビールを片手に、時には浜にひっくりがえしにおいてある船に座って、また時には砂浜に寝っころがって海を眺めている。次郎おじぃはアンナに海を教えてくれたご師匠さん。カッコイイ海の男。永遠のヒーロー。(こんなこと言ったらきっとおじぃは真っ赤になってしまうかも・・・。)海のことでわからないことはとにかく次郎おじぃに聞いてきた。そして、そんなおじぃが、今回はイジュと海にまつわる昔話しを聞かせてくれた。

 イジュは(ご存知の方もいるかもしれないが)、ひと昔前まで沖縄では各地で漁のときに使われてきた。「そんな話しを聞いたことがあるんだけど、どんなしてつかってたの?」と聞いてみた。
「昔はよ、イジュの木の皮をはいで、それとミンナ草(地をはっていて紫の小さな花をつける草。イモ畑が多かったときにはどこでも見られたそうだが、今はめったに目にしない。和名はわからない。)とを木づちでたたいてつぶしてペ−(灰)を混ぜ、袋に入れて海にもっていきよったわけさ。クムイ(サンゴ礁の割れ目の深くなったところ)を潜って、穴の中にそれを入れるわけ。そうすると魚がお腹を上にして浮かんできよったよ。魚だけじゃなくてカニもエビもなにかも、本トにおもしろいくらいたくさんとれよったよ。ハッハッハ。」
「それで魚を殺すわけ?」
「いいん。殺すんじゃなくてシニガター(死にそうな状態)にさせるわけさ。体がしびれるんだろうな。みんなプカプカ浮いてきよったよ。青酸カリが出てくるまではずっとそれで魚をとっていたさ。」
「青酸カリ?青酸カリでとった魚を人が食べてたわけ?」
「そうさ。それ持って潜ってたおじぃも大丈夫だったから、大丈夫なんだはずよ。ハッハッハ。
 青酸カリは鉄鋼所でもらってきたわけ。まくだけなんだからイジュ使うより楽ださ。はぁ、これも恐いほどたくさんとれよった。やしが(でも)、青酸カリは海もよごすし、魚だけじゃなくてサンゴなんかも死によったんだからなぁ。やっぱりナンギしても昔の人のやり方はジョウトーだったわけさ。」
「そのイジュでの漁はいつ頃までやってたの?」
「最近までよ。戦後しばらくはやっていたからなぁ。昭和20年代くらいまでかやー?いや、30年代くらまでかもしらん。ん?終戦は何年だったか?」
「?・・・。20年」
「じゃぁ、30年代くらいまではつかっていたんじゃないかなぁ。わからんがそのくらいだろう。ハッハッハ。
 青酸カリは今でもどこかでやっている人がいるはずよ。人が泳がないようなところでスーで(こっそり)取ってるはず。ほんとはやらん方がいいんだがなぁ・・・。
 でもありぃ、イジュはいい臭いしないさぁ。魚がよってこない感じするだろう。イジュがさいているときはダメよ。おじぃも潜らんよ。」
「そうねぇ?(笑)」
「昔の人も、イジュの咲く頃には魚は(イノー:リーフ内の浅瀬)に入ってこないって言いよったんだから。でもアンナよ、こんなにして色々おじぃに聞いても、おじぃはなんもわからんよな。」
 と、お決まりの最後の一言でしめくくられたのでありました。

 確かに、イジュの咲くこの時期はちょうどエイグァー(スクガラスの親。スクガラスは塩づけの状態でビンにつめられて売っている。沖縄料理屋さんではよく島豆腐の上にのっかって登場する。)の産卵前で、この魚をとれない(とってはいけない)のだそうです。次郎おじぃの中では、それはきっと自然に、あたりまえのこととして染み込んでいることなのでしょうね。
 イジュと人、人と魚、魚とイジュ。山と人間と海とがつながって、きれいなトライアングルをつくっていた頃のやんばるを、心に描くことができました。優しく穏やかでありながら、一方では命をかけた強烈なつながり。インチキなしの正面からのぶつかり合いが、こうしたバランスのとれたトライアングルをつくっていたのでしょう。
 次郎おじぃ、イッペーニフェーデービタン(大変どうもありがとうございました)!!また一つ勉強になりました。

 イジュの季節もあともう少し。花が枯れてしばらくすると、年に一度の待ちに待ったドキドキの大行事「スク漁」がやってきます。部落じゅうが殺気だつこのスク漁については、また次の機会におはなししましょうね。

おしまい

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その後の名護(二)
 5月13日、14日の連夜にわたって、NHK教育テレビは、「本土復帰30年」(ETV特集2002)を放映した。
 30年前の沖縄のさまざまな職種・年齢の人50人が、復帰をどういう気持ちでむかえたのかのアンケート証言をたどりなおす形で番組は進行した。フォトジャーナリスト・大石芳野さんをコメンテーターにしたこの特集を、私は都合3回見た。1回は家で、あと2回は私の予備校の高校3年生と大受生の授業でであった。
 本土復帰に対して30年前に沖縄人(ウチナンチュー)がいだいた「希望」、「とまどい」、「不安」を、その証言者の30年後の姿をとおして立体化した番組だった。全体としては無難なまとめ、という感じであったが、大石芳野さんという30年にわたって沖縄を愛した女性のやわらかなコメントがもの足りなさと共に番組をひきしめていた。
 2夜目の番組に最後の方にきて、私は驚いた。辺野古沖への米軍基地移設と振興資金の話が1人の花卉園芸家・重森さんをとおして語られた部分である。30年前10代の青年として、沖縄が自立して平和で仲よく暮らせるようになったことを記した名護在住の重森さんの証言の部分である。重森さんにとって、<自立>は沖縄人が仲よく暮らせるキーワードであったし、今もある。自らキクの栽培をし、出荷共同組合の指導的立場に立つ重森さん。その彼の長年の親友であり同じくキク栽培をしている赤嶺さん。この2人の間にある大きな変化がうまれる。それは北部振興策として政府が決定した10年間で1千億円の資金にまつわるものからおきてきた。赤嶺さんのキクの選別機が古くなってきて、夜中まで家族全員でキクの選別をやっても間にあわなくなってきた。それに追いうちをかけるかのようなキクの値段の下降。大学生と高校3年生の子供をもつ親として、赤嶺さんは機械のリニュアルのための振興資金の援助を願う決意をする。重森さんは、今が我慢のしどころだと赤嶺さんに語りかける。重森さんは振興資金助成のアンケートに「無回答」の決断をする。
 私の驚きは、ヘリ基地移設が名護に西海岸のキク農家にまでおよんでいたことではない。重森さんと別の選択をした赤嶺さんの子供2人が、私の予備校の生徒である、という事実からくる。テレビの中で、夜おそくキクを選別機に入れている女の子が私がいま教えている生徒なのだ。赤嶺友恵、名護高校 特進科の生徒であり、兄が昨春、桃山学院大学に入った。1つちがいの赤嶺ご夫妻は、50歳と49歳。名護市の西海岸の許田に住んでいる。友恵さんは本土の私立大学を志望している。2人の子供を本土の私立大に送ることの大変さを思うとき、私はお父さんの赤嶺複道(さだなお)さんの決断に立ちすくむ。辺野古沖へのヘリ基地移設とセットになった北部振興資金の助成を願う赤嶺さん。お父さんが手にする振興資金はたとえ現金という形ではないにしろ、私の職場を支える資金として入ってくる。お父さんは、私がヘリ基地反対をしていることをおそらくご存知である。私はお父さんと直接お会いしたことはないが、一度話しをしてみたいと思った。何という話題があるわけでもないが、直接顔を見て話してみたいと思った。

 名護は、市長選も終わり、ヘリ基地問題に関しては、沈黙の街となっている。その水面下で着々と進む米軍ヘリ基地移設と振興策。日本国は、さらに有事法制化へとまっしぐらに進もうとしている。外堀を埋めつくし、くらしの細部に押し入ってくる「米軍ヘリ基地移設」。赤嶺さんは今日もキク栽培に精を出しているんだろう。私も今日、夜8時から赤嶺友恵さんの授業をする。その足元は、「沈黙」にひそむ深い怒りと、やわらかな喜びにみちた「陣地戦」づくりがある。昨日も陣地の補修の汗を流した。その同じ汗で、私は赤嶺友恵さんに私の予備校で英語を通して何かを語りかけたいと思う。「名護の沈黙・停滞」の底にうごめく気配にじっと耳をすます。
2002年5月27日
輿石 正

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