美ら通信 第31号 2009年3月20日発行
【目次】


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美ら日記(32)
できるようになる事
 この時期毎日ヌーファに入って作業していると、色んな技が身についたなぁということをあらためて実感します。そのうちいくつかをここに並べてみたいと思います。
 まず何といっても大工仕事。カナヅチ、ノコに始まり、大ハンマーからドリルからチェンソーから・・・色んな道具が使えるようになります。水平やら直角やら、ちょっとその道の人っぽいことも出来ます。さらに、その場の材料でいかに間に合わせるかという対応力、何度となく材料を使い回し、クギも打ったり抜いたり、補強したり繋いだり、雨もりだって何のその。そーやってガンバって作ったのに、出来上がってみると数十センチのズレ・・・?これも手作りの味、同じ物は二度と作れません。
 そして大事なのは水回り。時々水の出が悪くなると、滝の上まで行って吸水口の掃除をします。配管工事もやります。これはパズルみたいでかなり楽しい。水がいつでもあって、蛇口をひねるとドバドバ出てくるって、ホントにすごいことだ。
 山道も作ったね。シャチョー指示のもと、クワとスコップと土のうで、山の斜面にコツコツ地道な道作り。石積みも出来るようになったなぁ。
 いつも気になっているのは薪。よく燃える木、燃えない木の見分け方、薪割りにはかなり自信あり。ヌーファ以外の場所にいても、薪になりそうな良い木を見つけると気になってしょうがない。これも職業病。
 物を運ぶのも、実はお仕事。海から?それとも山から?いかに上手く運ぶか、つねにみんなで話し合い。石、材木、砂・・・色んな重い物を運んできました。すごい力持ちと思われていますが、違います。スグルがよく言っているように、これもれっきとしたテクニック。
 こんな色んなことが出来るようになっちゃうじんぶん学校スタッフ、面白い仕事だ。そしていつしか身に付いていくのは、「それでも何とかなる」というよく分からない自信。よし、今日もやってみよう!                         (もり)
ショーのボルネオ便り
恭喜發財  新年快楽
(クンシーファーチャイ シンニェンカイロ)
Slamat tahun baru Happy new year
明けましておめでとうございます。

 まともに綺麗な日本語すら出来なかった自分が・・・ドウモ!ショウデス!
 初めて沖縄以外で正月を迎えました。まだ高校を卒業したての18の頃からエコネット・美のお世話になり、もう10年が経とうとしています。今はどういうわけか、青年海外協力隊として「環境教育」という職種でボルネオ島はマレーシアのサンダカンという街で、地元の人たちを対象に「環境教育」を行なっています。もちろんエコネット・美で受けた影響も一つの志望動機となっています。
 マレーシアは多民族国家で全体的に見るとマレー系5割、中華系2割、インド系2割、残りが原住民族・その他になっています。自分の住んでいる地域は中華系やカダザンドゥスンと呼ばれる原住民が多くを占め、また、土地柄観光客も多く中国語(客家)、マレー語、英語、現地語(ドゥスン語)が飛び交う毎日です。森?の規模はとても大きく沖縄と違っていますが、全体的に見ると沖縄にとてもよく似ていて時間はゆっくりだしみんな優しいし「チャンプルー」って言葉はそのまま通じるくらいです。もちろん外国ダーって感じるところもありますが。
 本当に、正直なところ大学を卒業するまで全く考えていなくて、たまたま受けたら受かってしまって、今マレーシアにいるのも不思議なくらいです。この慣れない地で、2年間、自分がどれだけ成長できるか自分自身とても楽しみです。
 定期的には無理かもしれませんが、タマ―にこうしてボルネオ便りをお送りしますので、楽しみにしていてくださいねー。
                                2009年2月8日
                                新崎聖(あらさきしょう)


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田んぼ 嘉陽たーぶっかー便り
 「嘉陽たーぶっかー」始まりましたよー!
かつて山裾いっぱいに水田が広がっていたほど、稲作で有名だった嘉陽。肥えた土、稲作に適した環境、澄んだ湧き水が美味しいお米を育んでいたのだそう。その頃の風景を嘉陽に取り戻せたらなぁと、みんなで美味しいお米を作ってみたいなぁと、嘉陽にくらすひーろニィとアンナとで、「嘉陽たーぶっかーの会」なるものを作って、この春からお米作りを始めているのでした。
 初めての今年は、自分たちも大いに楽しみたいというのと、仲間集めや作業そのものがどんな具合になるのかわからないことだらけだったので、参加者募集の広報活動ものんびり。それでも、県内から6組、県外からも4組の申込みを受けてスタートしました。
 2月の末には、プレ作業としてたーぶっかぁー仲間のみなさんに参加してもらって、たーぶっかー
に水を引き込む作業や、水田用の車輪に付け替えた耕運機で全体を耕す作業をしましたよー。
 ドロドロになったたーぶっかーで「泥んこサッカー大会」をしたり、水に誘われてやってきたイモリちゃんたちをタライいっぱい集めちゃったり。子どもたちの笑顔が最高にステキで、ついつい予定していた作業がやりきれなくなったりしましたが、こんなペース!こんなペース!
 3月14日、田植えを無事に終えました。全部で250坪の面積ですが、キレイに並んだ稲の苗が小さく揺れるたーぶっかーに思わずうっとりしてしまいます。さてさて、どんなお米を実らせてくれるのでしょうか。気になって、気になって、毎日様子を見に行ってしまうのでした。


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その後の名護(ニ四)
 クブングヮー(窪地)の人
 この『美ら通信』第27号に、辺野古の「命を守る会」の代表・金城祐治さんの告別式の様子とその周辺を記した。
 祐治さんの死去から2年目が近づいてきた。

 この原稿を私はいま大阪の大正区の安ホテルで書いている。金城祐治さんが生まれ36年間くらしていたこの大阪に2日ほど身を置いて何かを待っている。祐治さんゆかりの人に何人かお会いしインタビューをしながらその時に耳にした地名を足で確認する。足はどんどん路地裏へとすべり込み、思わぬ所に「石敢當」を見つけたり、突然内港(ウチコー)の岸壁にぶちあたったりする。カメラをまわさねばと思うのだが、その気になかなかなれずにひたすらうろつく。
 関西沖縄文庫で金城聲さんと何回か話しをし、わかったような気持になるとすごすと退却して話に何回もでてきた地にむかう。金城さんのことばの微妙な屈折とこだわりを体でいくばくかなぞってみる。カメラはいっこうにまわってくれない。

 沖縄の本土復帰の前年の1971年、金城祐治さん一家は沖縄辺野古に移住した。大正中ごろに大阪に出かせぎに出た祐治さんのお父さんの長栄さんは、東京、名古屋を経て大阪に定住し、石川県小松市出身の吉田はるさんと結婚した。
 鉄工所の工員、沖仲仕、タクシー運転手などをしながら二男二女をもうけた。祐治さんはその次男であった。祐治さんが13才の頃、生野区から大正区に引っ越し一家で運送業を始めた。金長運輸のはじまりである。祐治さんはお兄さんとともにお父さんの仕事を手伝っていた。祐治さんが31才の時お父さんが心筋梗塞で亡くなり2年後にはお母さんも亡くなった。1968年である。辺野古にあったお父さんの生家(屋号:川端家)のあとつぎの問題がおき、祐治さん一家は辺野古に移り住むことになった。祐治さんは、大阪生まれ大阪育ちの生粋の関西人であった。
 
 金城祐治さんのドキュメンタリー映画をつくるにあたって、私は祐治さんの大阪時代にこだわっている。というのも、祐治さんが逝去する2年前に2時間ほどインタビューした時、祐治さんの口から出た大阪での「差別」にまつわることばが重たかったからである。その差別のなかで、祐治さんが在日朝鮮人の人たちのことを語るときのまなざしの優しさ・親しさのことが忘れられなかったからである。自らが受けた差別のすぐそばに在日の人たちへの親しみを置きつづけることは、辺野古に移り住んでからの祐治さんからも消えることはなかった。
 お父さんの生家のある辺野古に移り住んでも、祐治さんは、地元辺野古の人たちにとってはヤマトンチューであった。沖縄口を話せない辺野古に住んだヤマトンチューという外からの視線は消えなかった。
 
 大阪でのウチナンチューとしての差別、そして辺野古に移り住んでからはヤマトンチューとして見られ続けるという2重の宙ぶらりん、祐治さんの命はそこにあった。祐治さんがよく口にした、「ワシの故郷は大阪や」は、宙ぶらりんの命の糸をたぐる微妙なひびきをもっていた。「命を守る会」の「命」には、そうした命もふくまれていたことをなんとか映画のなかにえがきたいと思っている。

 大正区の住民の4人に1人は沖縄出身者、もしくはその二世、三世だと聞かされた。「リトル沖縄」と呼ばれる所以である。関西沖縄文庫の金城さんと沖縄そば屋さんに入ってそばを食べていたら、お客さんが二人入ってきて、席に着くなり金城さんに、「カミソリ買ってやろうか」と声をかけた。ポカンとしていた私に、金城さんは小さな声で「ヒゲをはやしているとすぐに沖縄の人と思われるから、剃っておけということです」とささやいた。ウチナンチュー二世のなかにもヤマトに対する警戒心は消えていない。対ヤマトのなかで、自らのアイデンティティを外から(ヤマトの視線に合わせて)なぞる所作は、ウチナンチュー一世の大阪での身の処しかたを見てきた二世たちの消しがたい鏡でもあり続けている。金城馨さんは、「理解」が生む「差別」の構造を、ヤマトと同じであることの押し付けとしてとらえ、「同化と迎合」のないまぜを何回も語っていた。

 大正区の平尾地区のあたりをうろつきまわっていた時、見事な早咲きの1本だけの桜に出くわせた。なぜか私はてれくさくなって、その下をとおりすぎ別の路地にまぎれこもうとした。急に、あの桜を祐治さんが見たがっているという思いにつかれひきかえしてカメラをまわした。どんよりとした空をバックに、本土にしては一風かわったその桜を撮り続けた。沖縄の桜はもっとあっさり咲いていたのに、あの桜は何かしら重たい執念がこもっていると思って撮り続けたようなのだ。
 「在沖米海兵隊のグアム移転に関する協定」が署名承認された。日米軍事同盟を補完・充実させるこの協定が、辺野古への米軍基地移設をより強力におしすすめるものとして機能していくことはまちがいない。政局がらみにうつつをぬかし続ける本土日本に背を向けて、金城祐治さんのドキュメンタリー映画をなんとか完成させたい。私も宙づりなのである。                            (コ)


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