美ら通信 第30号 2008年12月1日発行
【目次】


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美ら日記(31)
「エコ」
 最近は「エコ」ブームである。沖縄のスーパーでもついにレジ袋が有料化され、テレビCMでは企業が自社がいかに「エコ」であるかを宣伝し、巷には「エコ○○」が溢れる。人々は環境意識に目覚め、素晴らしい未来への道を歩み始めたのか、はたまた、次は「アンチエコ」が流行りだして「エコ反対運動」なんてものが起こったりしちゃうのか・・・・・。
 前置きが長くなってしまった。世間の事をグダグダと言う前にまずは自分自身の思いを巡らせよう。「エコ」って何だろう?自分にとっての「エコ」。森とエコ。
 いつも職業や肩書きを聞かれると少し悩んでしまう。職業名として「エコツアーガイド」と名のりはするけれど、自信を持って言ったことはまだない。エコツアーって何だろうとずいぶん前からずっと考えている。人それぞれ生活スタイルやどこに重点を置くかも違うし、これが「エコ」とカンタンに言ってしまうものでもないような気がしている。ちなみに、「人それぞれ」という言葉を結論に持ってくるのはキライだ。そんなことは当たり前で、それを大前提に、ではどうすればよいかを考えなければ意味がない。それが話し合いであり、違う者どうしが共に生きていくということではないだろうか。共に生きること。そして循環していくこと。そこにいつも思考は返っていく・・・・・。
 毎日の生活の中で、循環したい、循環しながら生きていきたいと強く思っている自分がいる。例えば自分が死んだとき、できることならば裸で海に沈めてもらいたい。サメにかじられ、魚たちにつつかれ、プランクトンに食される。それが無理ならせめて、土に埋められて虫と微生物に分解されて、そこに生える木々の養分になりたいと思う。それはなんと幸せなことだろう。間違って火葬されて、死してなお二酸化炭素を排出したりはしたくない。
 生きていく上でも、日々自分と世界はつながっていて、何かの一部だったものが自分の一部になり、自分の一部が何かの一部になっていく。物理的にだけではなく、もっと内的なものも含めて全てが循環していくような、そんなものでありたい。
 ひたすら殺し続けるのではなく  むやみに保護するのでもなく  共に生きたい。あなたとここで                                     (もり) 
ボラスタ体験記  ゆりえ(山田 ゆりえ)
 私は去年、中学3年生で「子どもじんぶん学校」を卒業しました。「子どもじんぶん学校」は私にとって一番のイベントで、ここ以外では知り合うことができないスタッフや友達みんなに会うのが毎年楽しみにで仕方がありませんでした。ほとんど毎日ヌーファの大きな海や山やみんなのことを考えて「あぁ〜早く夏休みにならないかな」と思っていました。
 初めてじんぶん学校に来た小学校4年生のときから「私もいつかはスタッフに!」と思っていたし、それまでの卒業生も翌年はボラスタとして帰ってきていたので、今年の夏沖縄に行くことはずっと前から決めていました。でも「行くとしたら1ヶ月ぐらいは行きたいけど、そんなこと私にできるかな?」とか・・・。沖縄に来る直前まで不安でいっぱいでした。
 実際にヌーファに入って仕事をしてみると、火おこしはうまくできず結局1時間もかかってしまうし、料理もできないしお風呂も沸かせなくて「私は今まで子どもじんぶんで何をしていたんだろう・・・」というくらいボロボロでした。でも火おこしはやってる間にどんどん楽しくなってきて、一人でニヤニヤしながらかまどと向き合っていました。モリに「普通はもっと早くハマるんだよ」と言われて、何だか今までもったいなかったな〜という気がしました。その火おこしに使う薪をヌーファに運ぶ仕事もしました。びっくりするほど大量の薪をトラックに載せて、嘉陽の浜まで運んで、今度は船に載せてヌーファまで運んで・・・。気が遠くなる作業でした。普段半分遊びみたいに薪に火をつけていたけれど、あんなに頑張って運んだんだから大事に使おうと思うようになりました。それから、仕事をした後にみんなで食べたお昼ご飯はとっても美味しかった!
 そして私は、第2クールの初日に浮かれすぎていて蜂がいることに気がつかずにそのまま刺されてしまいました。すぐにヌーファから上がって病院に行き、ばぁばに深夜1時過ぎまで付き合ってもらいました。結局3日目の平滝に行く日に合流することになりましたが、待っている間私はずっと「早く戻りたい!」と思っていました。その時に「スタッフは命を預かっているのだから、ゆりえがそんな状況だと危険で、行かせられないよ。」と言われました。ずっとただ早く戻りたいとばかり思っていたけれど、「スタッフの仕事は遊びじゃないなぁ、今までと同じでは駄目だなぁ」と反省しました。それからは、しっかりやろう!と思いながら頑張ったけれど、ちゃんとできていたかな・・・?と不安です。ただ、周りのスタッフは凄いな〜と感心するばかりでした。でも平滝から帰ってきた時にみんなが私の分のムーチーを残しておいてくれたことには感謝!みんなで食べずにとっておいてくれたんだ・・・、と嬉しくなりました。
 たぶん、つまらない事も悲しい事もあったと思うのですが、帰る頃には最初の不安もどこへやら・・・。楽しいことしか覚えていない!というくらい、本当に本当に私にとって最高の夏休みでした。スタッフのみんなと遊んだことも、「じんぶん家」で生活したことも、第3クールで普段はあまり会わない年下のみんなと話しをしたことも、全部一生心に残るだろう楽しい思い出になりました。まだまだ全然子どもだけど、この1ヶ月でちょっとは成長したかな?と思います。
 いつもいつも助けてくれたスタッフの皆様、一緒にボラスタをした卒業生のみんな、第2、第3クールで出会ったたくさんの人たちと親切な嘉陽のおばぁたち・・・。他にも数え切れない素晴らしい出会いを私はたくさん経験しました。またこれから先もずっと、沖縄に戻って来たいです。そして素晴らしい海や山をずっと残しておきたい、そう思います。私は「じんぶん学校」が、ここの自然が、ここで出会った人が大好きです。「じんぶん学校」に出会えて本当に良かったです。本当に、本当に、ありがとうございました。


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「子どもじんぶん学校」体験記  ただし(具志堅 忠)
 「子どもじんぶん学校」って、とぉぉぉーーーーっても楽しい!!(^O^)
 4泊5日の最終日、みんなに一人ずつ話してもらった感想を聞いて「やっぱりみんなも同じ気持ちなんだ!」「参加できて良かった!」って思ってました。気がつけばあの5日間でオレはヒゲボーボー。そんな自分を鏡で見てさらに楽しい気分になりました。今思い出しても変なテンションになってしまう・・・。「よしっ!来年はすぐるさんのヒゲに挑戦するぞ!!」っと、決意を新たにかなり意気込んでいます。
 今年の「子どもじんぶん学校」でも色々なことに気づかされました。熱い飲み物を冷ますためには、、、、、もちろん氷を入れればよい。???が、氷がないぞっ!確かにそう。電気がなければ冷蔵庫もない。ここでは常温の水や温かいお茶を飲むしかないのです。電気がないのはわかっていたはずなのに・・・!?きっと初めて氷を見た沖縄の人は、固まった水を見て“マブイ(魂)”を落としたはず。改めて電気のありがたさに気づきました。そして、電気を使いこなしている人間のすごさにも!オレが他の動物ならきっと人間を畏れていますよ。“嗚呼〜〜〜うとぅるさい、うとぅるさい(あ〜コワイ、コワイ)”。そういえば「子どもじんぶん学校」最終日に、みんなが「アイス食べたーい!」って言いながら帰りの山道を歩いていたっけ。なんだか懐かしいなぁ。
 その他にも、「蚊やハチってけっこう人間が好きなんでは?」「流れ星は毎晩流れてる?」「月の明りはけっこう明るい!」「月のない夜空の方が星はたくさん見える」など、普段あたりまえだと思うことでも実際に体験すると新たな感動が生まれるなぁって思いました。
 北は北海道から今年は南は香港まで、21人の子どもたちが集まり、7人のスタッフと、このヌーファで5日間同じ時を過ごしました。子どもたちはみんなとってもユニークで、スタッフも子どもたちに負けないくらい面白かったです。
 2008年夏休み「子どもじんぶん学校」第3クール。オレにとってとても大切な思いでになりました。
 みんなありがとう。


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その後の名護(ニ三)
 金城祐治さん
 辺野古の命を守る会の代表であった金城祐治さんが亡くなって1年半がたつ。
 先日、辺野古の元ごみ捨て場所の下の浜から歩いて、辺野古の集落を海側から見てみた。キャンプシュワブの浜と米軍施設につらなって、辺野古上部落(新開地)と下部落(旧辺野古)が一眺できる。遠浅の海がリーフまで続きすばらしい景色だった。浜辺にはおびただしいシーグラスがあった。色とりどりの、おそらく本土では貴重な飾りものになるシーグラスが、海辺を500メートルほどおおいつくしていた。なぜか。
 名護市議会でもこの辺野古のごみ処理場の問題がとりあげられた。分別のなされないごみが海岸近くの巨きな穴型の処理場に投げ捨てられ、台風や大雨でそれらがあふれ海に流れ出した。その大量のビン類が浜に流れ、壊れ、海水に洗いながされ続けた。コンクリート塊や鉄筋にまじって、大小、形、色さまざまなシーグラスが誕生した。20年近くたって、角がとれ表面がザラザラした独特の海のガラス。ここのごみ処理場は今では閉鎖・埋立てられ、一面は広大な草原と化している。
 実は、このごみ処理場が金城祐治さんが地元の問題に関心をもつキッカケとなった所である。沖縄バスの運転手であり、沖縄バスの労働組合の幹部であった祐治さんが、定年を前にしてこのごみ処理場で何を思ったのだろうか。
 1935年に大阪市生野区で生れ育ち、1971年秋に辺野古に帰還した祐治さんにとって、辺野古は異郷の地であった。今時の戦争を本土で体験し、戦後は大阪で中学校を卒業して、父と兄がやっていた運送業の手伝いをしてドサクサの戦後を生きぬいてきた。中学校当時「沖縄人差別」を受けたことを祐治さんは記憶していた。帰還の翌年、本土復帰、その6年前にお父さんは心筋梗塞で亡くなった。

 時代の流れに翻弄され続け、定年後には辺野古沖米軍新基地建設反対にまき込まれた金城祐治さん。私はいま金城祐治さんのドキュメンタリー映画づくりの準備段階に入っている。ずっと気になっていたことに手をつけようとしている。いつものように、年表づくりから始めている。奥さんに話を聞いたりしながら年表をゆっくりと編んでいる。金城祐治さんの個人年表と時代の年表の2つを併列させて進めているが、ため息が出てくる。難しい。年表づくりをしながら、以前この通信にも書いた関西空港でのひとコマを何回も思い出している。タバコをくゆらせ、海のむこうに点滅する大阪、神戸の夜景をじっと見続けていた祐治さんの後ろ姿である。「ふる里は大阪」と言っていた。
 市井の人のまま辺野古の命を守る会の代表を続けた人がいたこと。それは貴重なことだった。今にしてそう思う。その「思い」をいくぶんたりとも成長させられるよう、しっかりと映画にし上げ、「その後の名護」につなげたい。          (コ)


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