美ら通信 第29号 2008年4月10日発行
【目次】

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美ら日記(30)
 もりと海とヌーファ
 みなさんこんにちは、ガイドのもりです。このたび今号より「美ら通信」の1面トップページの大役を任されることになり、気持ちを新たにガンバる決意であります。なーんてね。そう言ってもオレの文章なんてたかが知れてるし、まぁ力入れずに、ヌーファで想ったり、考えたり、感じたものを徒然と書いていこうかと思っています。
 まずはやっぱり、ヌーファとの出会いをふり返ってみよう。
 オレが初めてヌーファに上陸(まだ山道もなくて嘉陽から船だった)したのは1999年。あの日、海でシャコ貝を獲るために潜っていて、息が苦しくなって水面に顔を出し、見上げただだっ広い空と青く深い海、その瞬間に、本当に確信してしまったんだ。「もうオレは海から離れて生きることはできないだろう。そしてこの先長い人生のいろんな場面で何度も何度もこの瞬間を思い出すことになるだろう」って。
 多くの若者が「やりたい事がみつからない」「何の仕事がしたいか分からない」と口にする中で、海に出会えてしまった幸せ、ほんとに自分は恵まれているなと思う。ただまぁ、やりたい事が見つかれば後は楽チンかというとそんなことはないわけで、自分の思いを曲げずにそれと向き合い、取り組むという事はけっこー大変なのだけれど。とにかく今でも鮮明に思い出すあの風景、大きく息を吸い込んだ時のあの匂い、あれがやっぱり原点なんだよね。
 あれからもうすぐ丸9年。ずっとヌーファにいたわけじゃないし、最初のボラスタの頃なんて遊び過ぎて怒られての毎日(あのころより少しは成長したのかな・・・)。しかし、まさかヌーファとこんなに長いつき合いになるとは思ってなかったなぁ。
 じゃぁなんで今もヌーファにいるのと問うてみる。それはヌーファが好きだから。いろいろとありはするけど、やっぱりそこだよね。まだここでやりたい事もあるし、ヌーファに来てくれる人たちと共有したいモノがある。オレもヌーファも、まだまだすごい可能性を持ってるなぁ。なんか楽しくなってきた。
(全然まとまってないじゃん。そうだね。でもま、これはこれで・・・)         もり
「山原のくらしと自然ものがたり」  文:あんな
アンナの子育て奮闘記B
 今年1月で1歳になった我が家のチビ姫のんちゃん。二足歩行もすっかり様になってきて、のんちゃん語もだいぶ増えて、遊びもだんだんと複雑になってきました。気づいたらおっぱいも離れて、なんだかあっという間に「赤ちゃん卒業」です。 
 そんなのんちゃんの最近のお得意は、とにかく真似っこ。よく見てるものだなぁと感心してしまうほどで、こちらが何か新しい動きをするとすかさずリピートしてくれます。鏡の前でお化粧をしていると同じ格好をして隣で顔をパチパチ。髪の毛も、大人の大きなブラシを重そうに持って一生懸命とかします(梳かすと言うか、頭をゴシゴシこすってすごく痛そう、、、)。お父ちゃんがご飯のときに「うまい」と言えば即「うまっ!」。テレビのリモコンを携帯電話のつもりで耳にあてて「もしもし〜」とかとか。その一つ一つの言動がおもしろくって可愛くって、ついつい家事をほったらかして一緒に遊んでしまいます。
 さて、保育園に通い始めてからはなかなかのんびり嘉陽ライフをエンジョイできなくなっているのんちゃん。なので、週末やお休みの日こそはと、浜やら集落の中やらを探検しに近所へくり出すことが多くなりました。何でも拾って口に入れるブームが去って、お母ちゃんとしても多少目を離しても大丈夫な感じになって楽チン!浜辺まで連れて行けば、あとは「行ってらっしゃ〜い!」で、のんちゃんが黙々と何かに挑んでいる様子をちょっと離れたところからニヤニヤしながら眺めていたりします。
 嘉陽の西側の海には、ここのところアーサ(「あおさ」という海藻で、お吸い物に入れたり天ぷらにするととってもおいしい)が結構たくさんあって、潮のよくひくときには遠くからこれを採りに来る人たちの車で家の前の道路がいっぱいになるほど。この前の週末はちょうど潮も天気もよくてアーサ日和だったようで、のんちゃんとお昼ごろ浜に下りたときには干潟の上でアーサ採りが始まっていました。いつもはのんちゃんとアンナだけだったりする静かな嘉陽の浜なので、最初はキョトンと不思議そうな顔でたたずんでいたのんちゃんですが、にぎやかな干潟を見てなにやらにんまり。アーサ採りのオバサンたちを指さしたかと思うと、突然走りだして仲間入り。
 干潟の上はあちこちに水たまりがあって、時々ピョンピョン何かが跳ねたり石がニュルニュルしたりして、はぁ〜楽しい♪最初はおっかなびっくり、慎重に一歩一歩進んではニョロニョロ動くクモヒトデを突っついてみたりしていたのんちゃんですが、だんだんと大胆になって、最後は水たまりにデンと座って辺りを物色・・・。さんざん小さな生きもののみなさんと遊んだらお腹がすいたのか、最後はオバサンたちに習ってアーサを石ごとパクンとやっていましたよ。全身をふるってしょっぱい海を堪能した、ある日ののんちゃんでした。
 探検コース、浜の次は嘉陽の集落。のんちゃんの足でヨチヨチと、途中ニャンコやお花と遊んで寄り道をしながら集落の中をグルグル歩くと、終点の嘉陽小学校に到着するまで2時間近くもかかったり。でも、そのおかげでアンナも小さかった頃を思い出しながらゆっくりと嘉陽の心地よさを味わうことができています。のんちゃんの目線であらためて嘉陽のスージグワー(脇道)を歩いてみると、海から山にぬける風のなんと気持ちのいいこと!子どもの(いやいや大人だって!)五感を刺激する豊かさに満ち満ちていることを再発見させられます。こんな環境で子ども時代を過ごせたアンナはホントに恵まれていたのだと、しみじみ感じてしまいます。
 のんちゃんは、気に入ったポイントで腰を下ろしてはぼーっと空を眺めたり、目に入った草をおもむろにむしったり。拾った小石をポケットに入れたり出したり、誰かのお家の玄関に置いてみたり。大きなワンワンに急に吠えられてびっくりして、「あっこ(抱っこ)!あっこ!!」とかとか。同じ道を何度歩いても、探検は尽きることがない様子。で、途中決まって集落のちょうど真ん中にある共同売店に寄って、ご挨拶がてらひと休みします。売店に行くと、かーよ姉ちゃん(アンナの数少ない小学校の同級生の一人)が抱っこしてくれたり、ひーろニィ(アンナも小さいときから遊んでもらったりしているかつての青年会長)がタンカンをくれたり、3時ジャーで畑から戻ってきたおばぁたちが代わる代わる遊んでくれたり♪アンナたちの住む市営住宅は集落からちょこっと離れたところにあるので、売店はこうしてのんちゃんが嘉陽のみんなとつながる大切な拠点になっています。
 タンカンをもらってご満悦ののんちゃんは、帰り道でさっそく自分の小さなバッグに入れてもらったタンカンを取り出して「ハイ!(むいて)」。道の真ん中に座ってしまったので、アンナも隣に腰を下ろして、その日はそこで二人でおやつを食べることになってしまいました。甘いタンカンで手も顔もベトベト。その手に砂をくっつけてキャッキャと喜ぶのんちゃんの横顔を見ながら、母親になれた幸せを心にポッと感じたアンナ母ちゃんでありました。

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その後の名護(二二)
 イタジイの新緑がまぶしいほどになってきた。3月の山原の山々は、今年も一年の始まりを告げている。
 1945年(昭和20年)4月1日午前8時30分、米軍は沖縄本島中部西海岸(読谷村・嘉手納町・北谷町)への上陸作戦を開始した。無血上陸であった。沖縄守備隊は第32軍と呼ばれているが、正式名称は「球(たま)第1616部隊」という。最精部隊といわれた第3師団(武(たけ)部隊)を台湾守備に配置換えされたこともあって、水際作戦から持久戦に切りかえたことが無血上陸を許した原因でもあった。連合軍の日本本土侵攻を遅らせ、本土防衛の時間稼ぎ、それこそが沖縄戦の実体であった。 
 今私は、『未来・沖縄戦』の映画づくりをしている。教科書検定への抗議の県民大会(2007年9月29日/11万6千人参加)のドキュメンタリー映画をつくっていくうちに、「集団自決」教科書検定撤回県民大会だけではどうにもならないことを悟っての切り換えであった。今後も繰り返しおこるであろうこの種の「教科書検定」に、沖縄からきちんとしたノーのシグナルを出しておく必要性を感じたからである。
 沖縄の問題は、辺野古新基地建設問題にしろ、国頭(くにがみ)でのヘリパット基地建設問題にしろ、米軍人によるレイプの問題にせよ、常に一過性の問題として本土(政府)に小手先であつかわれてきている。見返り振興資金というアメをちらつかせてのこれらの処理方策で60余年が経ち、そのことに<慣らされ>・<慣れ>てきた沖縄。今回の教科書検定問題は、その慣れあいの中で出るべくして出た一つの例証にすぎない。その<慣れあい>にくさびを打ち込むものを今回のドキュメンタリー映画として出したいと考えている。もちろん、その「くさび」は今までも多くの人々によってなされてきたし、今もなされている。
 今回の、『未決・沖縄戦』は、今まであまり語られてこなかった、沖縄本島北部における「沖縄戦」に焦点をあて、なぜ今回の教科書検定に端的にでた、「軍命による強制的集団死」を、無印の「集団自決」ということばにすりかえようとしているのか、そこに迫るものである。実は、そのすりかえを許してしまうものが沖縄側にあったし、今も沖縄戦研究のなかで克服されていない所でもある。沖縄戦研究を、体験者からの聞きとり調査にもとづいてずっとやってこられた石原昌家氏(沖縄国際大学教授)の痛苦な自省と沖縄戦再検討がこの映画の骨格にある。あまりにも悲惨な沖縄戦であり、それに引き続いての米軍占領そして米軍基地の固定化と続く過酷な沖縄の過去と現在が、それ故にこそ持ってしまった盲点を、石原昌家という沖縄人沖縄戦研究者の自省と再構築の姿もきちんと記録として出してみたい。
 沖縄山原での沖縄戦を調べていけばいくほど、「沖縄戦」は実にまだまだ<未決>の部分が多いと思い知らされる。その未決の部分に、つけ込まれるスキが生まれていると考えることができる。首里から南部での沖縄戦最後の激闘にあまりにも焦点があてられ、それ以前にあった北部(伊江島を含む)での激闘の実相が伝わっていないことが実は大きい。例えば、本島中南部の人々の疎開先でもあり、遊撃戦(ゲリラ戦)の拠点でもあった北部での沖縄戦。日本軍の敗残兵(指揮系統を失った野良犬と化した日本兵)による「スパイ刈り」、「食料強奪」など。さらに朝鮮人軍夫、朝鮮人慰安婦の存在と苦闘。本島最大のハンセン氏病棟のあった沖縄愛楽園での沖縄戦など。いわば「もう一つの沖縄戦」という実相はあまりにも伝わってはいないし、沖縄北部に現在もある70余りの慰霊碑が語りかけているものの重さも伝わっているとはいいがたい。北部の各市町村や集落の「字詩」(字史)が語りかけている沖縄戦の内実そして証言も伝わってはいない。生き残った少年兵たち(鉄血勤皇隊、少年護郷隊・看護隊)の証言をカメラにおさめながら、沖縄戦は実に「未決」だと思わざるをえなかった。
 しかも、戦後の沖縄戦処理が、「援護法」という名の下に収束され、「軍命令」が実質上は「軍協力」へとねじまげられ、0才児をふくむ犠牲者が援護法の適用をうけすぐに横流し的に靖国神社に合祀されていったことを私は初めて知った。本土復帰の20年も前に、「靖国思想」は沖縄の犠牲者をつつみこんで一つの殉国美談化されるものを形成していたことに、わが身の無知を思い知らされた。
 今、映画の編集段階に入り、本土に生きる人々がいかに沖縄戦の実相から疎外されているかを元本土人として思う。「未決・沖縄戦」のその「未決」の部分を共有することによって、沖縄と本土にまた別の想像力の橋がかかることを感じている。
 おだやかな音楽をバックに、少なくともアジアの人々に向けたメッセージが、この沖縄名護から発せられることに期待をこめている。
 モノローグ風のこのドキュメンタリー映画『未決・沖縄戦』が、別の地でまた別のモノローグと出会い、修正され、響きあうことを楽しみにしたい。DVDスタイルの1時間半の映画です。                                     (コ)

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