美ら通信 第22号 2006年2月9日発行
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美ら日記(23) 
成長する山の道
 今回は少し私事を記すことを許してもらいたい。
 今日1月23日、大学入試センター試験の自己採点結果が出た。日本の入試制度は、旧態依然としたもので「改革」などのぞむべくもない。「センター試験」の名の示すとおり、全国一律の輪切り判定が子供たちをまだ直撃している。平和の中の「戦場」は、体質遺伝の一部として教育の現実をとらえ続けている。
 そんな日々に、少しのヒマを見つけては、ヌーファの森とヌーファの浜に下りる。「下りる」というよりも「入らせてもらっている」という気分。雨で削りとられた山道に出くわすと、とにかくそこでじいっと座りまわりを見まわすことにしている。「自然」ということばを、土に、植物に、山の傾斜にもどして、自分達のやっている事の深さと浅さを教えてもらう。
 それにしてもどうだ、あのクワズイモ、オオタニワタリたちの生命のすごさよ!感傷的な思いなどけちらかすたくましさ、落石にもぎとられたクワズイモの根から再びつき出す芽のあの逞しさよ。少し土を掘るとミミズたち。上の方でイノシシが斜面を横切る独特の音がきこえてくる。オオムラサキシキブのつぼみが、はちきれそうに海にむかってたわわになっている。積み上げた石組みの間からも植物の芽と根がのび出し、石を山にとり込もうとしている。
 まだ石積みを続けている、斜面の土の流れは少しずつおだやかになり、石の上にこんもりと山肌の土をのせてくれている。
 今度の道は、ゆっくりゆっくりと下りていってほしい。目的地にたどりつく途中経路ではなく、道そのものを楽しんでもらいたい。手で積んだ石垣は、ぼんやりとした丸みをおびてひと所として直線はない。それが好きでたまらない。
 92才になった父が、先月末名護で大腸ガンの手術を受けた。父をおぶってあの山道を下りていくことに決めた。そんな風に山道は育ってくれた。       (コ)


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すぐる日記
 冬の大潮の夜。「よし、今日はイザリに行くぞ!」。夕飯を早く済ませて準備を始める。揃える物は、(1)手袋、(2)懐中電灯、(3)雨靴(足元の安全と寒さ対策を考えて)、(4)袋(獲物入れ用)、(5)バケツ(袋を破るカニ入れ用)、(6)洗濯網(バケツからも袋の隙間からも逃げそうなタコ入れ用)、(7)三又のヤス、(8)バール、(9)トング、(10)予備の懐中電灯、(11)腕時計。これで準備万端。ただちょっと道具が多い。
 まだ海に出るまでには2時間もある。遠足を待ちきれない子どもの気分だ。お茶を飲みながら時間つぶし。それでも我慢できずに予定よりだいぶ早く海へと向かう。「獲れたものをどうやって食べようか」「入れ物は足りるかナ」「先に誰かに獲られていたらどうしよう」と、色々考えながら歩いているうちに海に到着。島ぞーりから雨靴に履き替え、いざ出発。気分は大潮を越えて最高潮。明かりを照らしながら獲物を探す。小さなカニや、ウミウシ、青い綺麗な小魚や貝。見るには充分すぎるほど楽しい海の生き物。でも僕が探しているのは食べられる獲物。ひたすら探す。やっとのことでまずはウニを発見。獲ろうとすると、準備万端の道具たちが手を占領してなかなかウニに手が届かない。もうちょっとなのに・・・。そこで一度浜に戻って持ち物を考えなおす。懐中電灯、袋、軍手、ヤス。よく考えてみるとこれだけで充分だ。気を取り直してさっきのウニの元に戻る。やっと一個目のウニをゲット。シラヒゲウニだ。ウニの棘がオレンジ色や白く見えて手の上をウネウネ動く。おいしそうだ。だけどそれ以降がなかなか見つからない。しばらく歩いて岩陰を覗く。なにかが動いている。1メートル以上はある大きなウツボだ。ヤスでウツボを一突き。刺さらない、奥に逃げられた。反対側から覗くとウツボの頭が見える。明かりで威嚇すると、ウツボは逆戻り。次は絶対に外せない。狙いを定めて慎重にヤスで突く。想像以上にうまくウツボの首辺りにささりヤスの先で大暴れ。ヤスの先から手に伝わる振動がたまらなく気持ちいい。釣りの魚が針にかかった時と似た感覚。「さいこー!」思わず発してしまった。刃物のような歯で咬まれないように頭を抑え袋にしまいウツボをゲット。ドキドキした。うれしくてたまらない。それからはウニを連続ゲット。大漁とはいかなかったが、結局2時間あまりで2匹のウツボと、14個のウニを収穫して無事にイザリ終了。
 家に帰りウニはウニ丼に、ウツボは煮付けにして、最高の海の幸を堪能。そして次の日、ウツボをオバーに自慢しようとしたら、オバーは家の前で、俺が今までに見た事もないようなでかいタコをさばいている。あたり前の顔で。僕の自慢は自慢じゃなくなった。まだまだだな俺。ガンバレー。オバー、オジー大きなタコ獲ったら自慢しにいくからねー。

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「山原のくらしと自然ものがたり」 文:あんな
 去年の暮れ、念願叶って嘉陽に戻って参りました。え?アンナはずっと嘉陽に住んでいたんじゃないの?と思われる方もいるはずですが、結婚する少し前からしばらく嘉陽を離れて生活していたんです。とは言うものの、車で30分くらいの同じ名護市だったんですけどね。いずれは必ず帰ってくるつもりでいたんですが、運良く市営住宅に空き部屋が出て、思っていた以上に早く戻ってこれることになったのでした。やっぱり東海岸!やっぱり嘉陽!恋しかったふるさとに帰ってこれて、今はますます楽しい毎日を送っています。
 新居はアンナが育った家と同じく、浜まで歩いて20歩程度。南側の部屋の窓からは、防風林のモクマオウのすき間から海がのぞけて、一日中波の音が聴こえてきます。オーシャンビューなんて言うと聞こえがいい感じがしますが、夏は台風が少々心配です。まぁでも、あれだけ年季の入った輿石家だって飛ばされずに踏ん張っているんですから、きっと大丈夫なんでしょう。とにかく再び海・海・海!寒がりなアンナにはまだしばらく水の中の探検は無理なので、今は散歩がてらにゴミを拾いながら浜をパトロール(?)して、貝殻やら流木やらを拾い集めていたりします。
 建物の北側はすぐ後が山になっていて、大きなアコーやガジュマル、オオバギなどなどの緑の光が窓を抜けて部屋の中まで届きます。窓枠にひじをつきながら、裏山をぼぉっと眺めるのがすっかり日課になりました。朝は小鳥たちのさえずり。夜は色んな虫たちやコウモリの大合唱。耳に入ってくる音だけ思えば、まるでヌーファにいるようです。メジロやコゲラ、ウグイスたちがチョンチョン、チッチと枝を移りながら遊んでいるのを見て、これは“在宅バードウオッチング”ができるなんて、一人で喜んでいたりします。さっそく双眼鏡を用意しなくっちゃ。
 嘉陽はアンナの大好きな村で、大切なふるさとです。浜にも、海の中にも、学校にも、裏のキビ畑にも、集落の中の細い道にさえも、想い出がたくさんつまっています。嘉陽をしばらく離れていた間も、ヌーファへ行き来するときには何度も嘉陽を通っていたのですが、やっぱりそこに住んでいないというだけで遠く感じてしまっていました。だから今は超ハッピー!だんな様は毎晩アンナの嘉陽での想い出話しを聞かされて、耳タコになってしまっているのかも。「あのね、小さいときこの道で、ゆみ(ゆきおばぁの孫)を自転車の後に乗せて走ってたわけさ。おばぁの自転車なんだけどさ。ゆみがキャーキャー言うから調子にのってスピード出したら小石ふんずけてすっ転んだわけよ。ゆみと自転車がアンナの手の上にドスンって飛んできて、そのときここが折れたわけ。で、ハンドルも曲がっちゃたし擦りむいて血が出たまま謝りに行ったら、ゆきおばぁよ、しにわじて!(カンカンで)」とか。「後の畑の間に細い川が流れてるんだけど、水が夏でも冷たくてとってもキレイなわけさ。いつも一緒に遊んでた子たちとしょっちゅうその川の上流のところまで遊びに行ってたんだけど、アンナたちよ、勝手に“願い川”なんて名前付けて、この川に向かってお祈りすると願いが叶うとか言って、必ず手合せてたってば。川に架かってた橋は“願い橋”。で、そこに大きなウシガエルが住んでたんだけど、そいつがこの川の神様なんだとか決めて、カエルが“モー”って鳴いたら願いが届いた合図だとか言って喜んでたわけよ。はぁ、たくさん遊んだなぁ〜」とかとか。何も特別なことはなくても、晴れの日も雨の日も、夏も冬も、遊ぶことに追われながら毎日忙しく過ごしていた記憶があります。そうそう、浜にみんなでそれぞれ自分の家の間取り図を描いて、学校が終わったらしばらくそこに帰って過ごしてたこともあったっけ。砂の家のご近所付き合い、楽しかったなぁ。
 現在、嘉陽小学校は全校生徒で3人。そのうち2人は兄妹です。6年生が1人いるから、もしかしたら春からは2人になってしまうかもしれません。アンナのときはまだまだたくさん子どもがいて、同級生が8人もいました。全校では31人もいたんですから、今のほぼ10倍です。少子高齢化が急速に進んでいる嘉陽では、若者たちの多くが村を離れて外で新しい家庭をつくって生活をしています。子どもたちが元気に遊ぶ姿が見られなくなってしまったことは、やっぱりとても淋しいことですね。お年寄りが増えたことや、人口そのものが減ってしまったこともあって、草が生えたままになっている畑も目立つようになっています。こんなに心豊かにくらせるステキな場所なのに、もったいないなぁという気持ちになってしまいます。
 まずはアンナにできることからやらねば!「旦那つれて嘉陽に帰って来たから、アンタはちゅーばーさ(おりこうさん)」と、はっちゃんおばぁに言われちゃいました。さて次は、どこかに貸してもらえる畑を探してわが家で食べる作物を育ててみようと計画中。はぁ、やることたくさん!これから忙しくなるぞ〜!と、嘉陽にいれば、昔も今も変わらないアンナでありました。

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その後の名護(十五)
  9月20日(火)、岸本建男名護市長は、米軍普天間基地の名護市辺野古沖移設の<縮小案>に対して、「SACO(日米特別行動委員会)最終合意の海上案なら受入れの余地はある」と言明した。
 1年半にもわたる辺野古の「命を守る会」を中心とした体を張った反対運動(海上での阻止活動)と、国内・国際世論での環境破壊への警告によって、海上埋め立てによる米軍新基地建設は前にすすめられないでいる。「米軍の世界的戦略再編計画」によるSACOの見直しの風潮が現実味をおびてきていることも、米軍新基地建設の遅滞の原因ではあるが、地元での反対運動なしにおきえない事態である。
 SACOの最終合意で決定した基地移設の現行の規模を縮小して、陸側のリーフ内浅瀬(イノー)を埋め立てて米軍専用飛行場として建設する<縮小案>に対し、岸本市長がこの時期に「容認」の意思表示を行ったことのねらいを考えてみたい。
 実は、この「リーフ内縮小案」を提案したのは、沖縄県防衛協会北部支部である。この会の会長である仲泊弘次氏は、東開発という総合建設業の社長であった人で、岸本市長の長女は、3年ほど前に仲泊氏の息子と結婚した、そういう間柄である。もちろん、娘、息子のことを今回の「リーフ内縮小案容認」発言と結び付けることはできない。しかし、岸本市長容認発言のその日の夕刊(『沖縄タイムス』)で、沖縄県の花城順孝知事公室長は、「今回の再編協議で(海兵隊の)県外移転を求めている中で、個別の案〔仲泊会長が出した案/私注〕に対して岸本市長が容認する対応をとるというのは理解に苦しむ。」と発言している。翌日には、稲嶺知事も不快感を示している。額面どおりに受け取れば、岸本発言はかなり唐突であったことになる。仲泊氏はいう。「辺野古区の幹部と意見交換し、危険な普天間基地を早期に移設する一番いい案を提案した。サンゴへの影響も少なく、今後も広く賛同を得るのではないか。」と。ねらいは、「早期の移設」である。沖縄の建設業界がのきなみ低迷する中で、とにかく工事を早めたい、とする意向が現れている。<危険な普天間基地>を一刻も早く移設させることを全面に出して、「海上埋立て米軍新基地建設」をなにがなんでもやる、ということだ。市長の発言は、その<縮小案>を現実的政治プログラムの中に浮上させることをねらっている。仲泊氏と岸本市長のタッグが表面化してきた。県外移設を望む沖縄県民の世論に逆行する政治力学がまかり通ろうとしている。
 かつて、岸本市長は、普天間米軍基地移設に対して、「受入れ七条件」を出した。今回の「縮小案容認」と「受入れ七条件」との整合性について、市長は来年の市長選で民意を問えばよいと言った。まるで小型小泉純一郎である。嘉手納基地、普天間基地の騒音問題がひんぱんにおこり、トラブルも発生している中での政治家気取りである。国や県から出された案ならいくらかわかるが、「沖縄県防衛協会北部支部」という一民間の出した縮小案に「容認」はあるまい。「リーフ内のサンゴの影響も少なく」などという全く非科学的なこの案に、市民を代表する市長が容認発言をするほどにあせっている。自身の市長選を意識したこの発言が、ここしばらくマスコミをにぎわすであろう。こういった「小型小泉純一郎」がのさばるのも、今回の総選挙の余波なのか。「縮小案」にメリットなどなにもない。                  (コ)


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