美ら通信 第16号 2004年6月29日発行
目次】



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 美ら日記(17) 
石の上にも五年
  ヌーファの山道が現在の形になって五年がたつ。七百余段の山道は今ではすっかり自然の中にとけこんでいる。大雨や台風の後の修理・改修、そして年中行事の補修や清掃を経て現在の姿がある。一ヶ月ほっておいたら道は山へと帰っていく。前に来た時と同じですネ!と言われた時、この一ヶ月間の補修はうしろにかくれている。
 現在の石段の所は最初の一年余りは、山腹を少し削っただけのものだった。雨のたびに斜面がくずれ、足をすべらすお客さんがいた。「自然のまま」のむずかしさがここにある。「ほどよい自然へのかかわり」を、どうとらえていくかが問われてくる。石段づくりの苦労は何回も何回も書いた。何回書いてもあの時の様子は胸にせまってくる。
 石段ができあがった最初の夏、大雨があった。石段はえぐりとられ、沢を流れた雨量とその力のすごさを見せつけられた。普段は山の谷にすぎない沢の流れをなんとか緩和する方法がないか、と考えて近くのオオタニワタリ(シダ科の大葉の植物)を沢にジグザグに植えた。水流を蛇行させるためである。効果はてきめんで、景観もすばらしくなった。現在の姿である。「自然」に教えられ、そこに自然の力を注ぎこんで「自然」とかかわっていく、それが<じんぶん>(知恵)なのだろうか。
 この石段はいつも何かを語りかけている。独りでヌーファに入って一時間ほど所々の石段にすわる。ひんやりとした感触がおしりから伝わってくる。樹々の間からの海、さえずる小鳥たち、新芽や花、夏の夜にはおびただしいホタル。何か地の底から懐かしさがこみあげ、生かされていることの実感にひたる。小さな努力を積み上げ、そして持続することの大切さをしみじみと思う。マーニー(クロツグ)の花やクロヨナの花が石段の上に敷物のように降り積もっているときのあの幸福感!石の上にも五年が過ぎた。(コ)


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辺野古・座り込み体験記(5.2〜6)
  エコネット・美会員
 ジュゴン・ブランチなごや(宇野 進二)

 3月にバリに行ってきたばかりだったので、GWは控えておこうと思っていたのだが、かみさんと子どもたちはおばあちゃんと温泉旅行に行くという。ということで(どういうことだ!)、またまた沖縄へ。というのは半分冗談で、どうしても行かなければならないわけがあった。米軍普天間基地の「代替施設」として日米政府は、名護市辺野古沖に新しい基地を造ろうとしていて、4月19日には那覇防衛施設局がボーリング調査を強行しようとした。地元の人たちが辺野古漁港に座り込んでこれを阻止している。ついにこの日が来てしまったである。とにかく現地へ行かなくてはいけない。


長期戦をたたかう人たち

 2日、朝一の飛行機で那覇へ。バスで辺野古へ直行。漁港のそばにテントが張られ約20人くらいが座り込んでいる。旧知の東恩納琢磨さんもいた。施設局は来ていないそうである。住民団体「命を守る会」の金城祐治さんに名古屋の仲間から預かってきたカンパと寄せ書きを手渡し、夕方まで座り込み。瀬嵩の「ザンぬ家」に泊まる。
 3日は朝から辺野古で座り込み。施設局はこない(結局、連休中は来なかった)。緊迫した状況ではあるが緊張の連続では長期戦はたたかえない。ヘリ基地反対協の大西さんらが「歴史教室」をしたり、何人かはカヌーを楽しんだりしている。宇野は干潮で干上がった辺野古の浜を散策しカニを捕まえたり、三線を弾いたり、本を読んだりして過ごした。
 4日、ピース・サイクルの家門さん(同宿人)、ピースボートの女性2人と一緒に琢磨さんの船で基地建設予定地に近い長島に行く。ここからキャンプ・シュワブは目と鼻の先、向こうの山はキャンプ・ハンセン。ここに「代替」基地を造れば…。アメリカが考えていることがよくわかる。5日朝現地を離れ6日昼の便で名古屋に戻った


これはどこの国の問題か?

名古屋に戻って、15日に5.15(沖縄本土復帰記念日)に因んだイベント「ジュゴンでーびる」を開催し現地報告をした。「情報化社会」とは言うがこれだけ重大なことが、大和ではほとんど報道されていない。名古屋でのこのイベントが琉球新報(5月20日付)で報道されたのは皮肉である。
 辺野古での座り込みの状況は、
「ジュゴンの家日誌」
http://dugong2003.fc2web.com/index.html
をご覧下さい。


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辺野古・座り込み体験記 2
 エコネット・美スタッフ
 神座 森(19歳)

 ふと気づいたらまた沖縄にいるんだよね。おかしいなぁ・・・。ホントなら今ごろブラジルでサッカーしてるはずだったのに。
 去年の暮れ、ブラジルに行こうと思い立ってお金も貯めてパスポートもとった。その矢先に辺野古の動きが耳に入ってきちゃったんだよね。正直迷ったけど、数時間後には「どーやって行くか?むこうでどーするか?」ばっかり考えてた。

 結局なんだかんだでオレが辺野古に座りに行けたのは、みんなが座り込みを始めてから30日目くらい。行ってみたら、防衛施設局の人たちが来ていない間はけっこーみんなのんびりしていて、ヨガ教室みたいなのをやったりしている。そりゃそうだよね。いつもそんなにピンと張りつめていたら絶対にこの長期戦はやっていけないもんね。ある日辺野古で座ってたら、お昼すぎに近所のおあばぁたち10人ぐらいが来てさ、そのおばぁたちがカッコイイんだわ。『べつに反対運動なんて気取ったもんじゃなくて、イヤだから座るわけよ。それだけのことだわけ。』みたいな雰囲気。そんなおばぁたちにいろいろ話しかけてみると、楽しい世間話だったり、昔から今にいたるまでの辺野古の話しだったり、ホントに色んな話しを聞かせてくれるんだ。オレが毎日辺野古に通うのは、実はそんなおばぁの話しが聞けるからっていうのもあったりするんだよね。

 最近オレは基地を作らせないために海洋調査をしている船に乗っけてもらって、辺野古の沖や大浦湾を潜りに行ったりしてる。今はその行動が直接基地反対につながるわけじゃないけど、まだまだこっから面白いことがやっていけそうな気がするんだよね。オレは、“オレがこの海でもっと泳いでたいから”っていう超個人的な理由で、辺野古に建てようとしている米軍基地に反対しているわけで、きっと座り込みしてる人たちの胸中もそれぞれなんだと思う。オレにできることはオレがやるし、他の人ができることは他の人がやってくれるだろうと思ってる。そーやって、みんなのイヤだ!って気持ちが色んな形で広がっていったら、なんかイイ感じだよね。

 そういえばこの前大浦湾に潜りに行ったとき、お昼に平島で休憩してたらキャンプシュワブの若い米兵が船で3人ぐらい来て、とっても楽しそうにシュノーケリングしていたよ。

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その後の名護(九)
 梅雨のひとときの夕方、片ぶい(一方だけに雨が降っている状態)の蒸し暑い夕暮れ。おびただしい羽アリが横なぐりの雨のように降ってくる。いつものように、誘われるようにウミガメも上がってきた。イジュの白い花、そしてノボタンのうす紫の花。谷間にはまっ白なコンロンカ。夏直前の、この儀式のような、沖縄山原の季節の移り変わり。
 憤りが体に充満し、その横に沖縄の自然が大きくある。力がほしくて詩集をひらく。

  “ 痛いめざめ ここちよい眠り
  おぼえておきたいこと 忘れてしまうこと
  反対の方向に向かって 同時にすすむ ”

「反対の方向に向かって同時にすすむもの」が私の中にうごめいている。その真ん中に<憤り>がでんと座って動かない。口をふさがれたその憤りは、体じゅうをぐるりとまわって私自身をにらみつけている。
もう一つ。

 “ 国民の都 東京は
  日本の知識人(インテリ)を包む
  高く立て日の丸を
  ゴッド・ブレス・アメリカ ”

私の<憤り>の外側を包みこむ詩だと思った。鶴見俊輔氏のこの二つの詩(『もうろくの春』編集グループ<sure>発行)に片足をのせ、もう片足を沖縄山原にのせて、今回の「その後の名護」を少し拡大して届けさせてもらう。

 「その後の名護」を八回にわたって書いてきた。いったい「その後の名護」の「その後」の起点はいつのことだろうか。
 1995年10月21日の県民総決起大会か。1996年9月8日の日米地位協定の見直しおよび基地の整理・縮小に関する県民投票か。1997年12月21日のヘリポート基地建設の是非をめぐる名護市民投票か。その市民投票にもっていくまでになされたさまざまな名護での市民運動の立ちあげの時か。市民投票の結果を反古(ほご)にし基地受入れ声明を発表した前名護市長を告訴した時か。
 八年間のどこを起点としてみても、「その後」はしっかりとした足場としては見えてこない。手帳をくくると、その時々の生々しさがよみがえってくる。しかし、なにか芯をはずされた思いが消せない。そのはずされたままの、個人ではどうすることもできない「外側に働くもの」がこの八年間に居すわっている。その「外側に働くもの」は、アメリカの軍事戦略にまつわるものであったり、それに追従する日本国の政府の動き、特にたて続けに可決された有事立法であったり、その日本政府に物乞いをする沖縄の知事や名護市長の判断であったり、というものだろうか。それは確かにある。沖縄北部山原の名護市東海岸の小さな集落が受け止めきれない大きな力がこの八年間に押し寄せてきたことは確かである。

 しかし。しかし「外側に働くもの」をいくら集めても埋めきれないもどかしさ・スキマ・ズレがある。沖縄・東海岸でくらす人間にとって、このスキマ・ズレの中にこそ大切なものがある。名護の市街地に住む多くの名護市民にとって、名護の東海岸は事件・事故や今回の基地移設問題がおきた時だけ関心をもつ地である。名護市のゴミの最終処分場は、私の住む嘉陽にある。夏のあの大量のハエを経験したことのない多くの名護市民にとって東海岸は、それこそ、昔のヤンバルが残る超過疎の集落であるにすぎない。ましてや、那覇の人々にとって、東海岸は休日や連休・夏休みのバカンスの場にすぎない。
 「もどかしさ」・「スキマ」・「ズレ」は、東海岸に住む私たちが自力で基地にたよらない、自立した地域おこしをしてこなかったことにからむ。「基地ノー」を「ノー」と言い返せない依存心がなんとも寝苦しい環境をこしらえてしまっている。助成金と振興資金以外に地域の活性化のキッカケをつくり出そうとしない。その怠慢さがつもりにつもって今の状況を導いていることを、はっきり口に出して言うことだ。二見以北の10区の集落のほとんどが、公民館の新築を振興策のもとでなされた。外からの力でなされたものは、ただ新しくなっただけで魂は入っていない。自分たちの地域をどうしたいのか、どうすればこの超高齢化した過疎の地域に、この地にふさわしい活力がよみがえってくるのか。慣れ親しんだ東海岸の自然のすばらしさに、どうかかわりをもっていけば、私たち東海岸の人間にふさわしい地域ができるのか。そのために汗を流していくことだと思う。中央を頼って生きていく時代は終わったし、終わらせなければならない。自分たちの地は自分たちで創ると腹をくくる時がやってきた。それは、ある意味では大きな大きなチャンスである。この地の歴史や文化や特徴をふまえて、この地にふさわしい<豊かさ>を創り出していくチャンスである。その具体的な動きこそ求められているし、エコネット・美の出発の志でもあった。外からの動きに抗するだけでなく、内側からつくっていく喜びをじっくりと、そしてしっかりとつくっていこうと思う。遠慮せずに、思いきって行動し、汗を流すことをしたい。「その後の名護」の「その後」は、ふり返るべき地点としてあるだけでなく、これからの未来をつくるスタート地点として何回も何回も設定されていくものでなくてはならない。「スキマ」と「ズレ」を自分の地域にもどして、少しずつ埋めていくことの中から、海上生埋め工法による基地移設に対して結果的にノーと言える地域を共につくり出していきたい。次回からは、その具体案の提出に入っていきたい。紙上やネット上での意見交流を呼びかけられたらと思う。あきらめるわけにはいかないし、なんとしても辺野古のイノーを埋め立てることを止めなくてはならないからである。(コ)


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