美ら通信 第13号 2003年9月30日発行
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 美ら日記(14) 
 名護市街の職場から嘉陽への行き帰り、7月から9月いっぱいにかけてよく起きることがある。小動物を車にまき込むこと。行きは、チョウチョの巻き込み。まるで待っていたかのように、すらっとラジエタ−の部分にすい込まれていく。「アッ!」っと小さな叫びが出る。急いで降りて、指でつまんでひきはなす。たいていは無事で、そ知らぬ顔で舞っていく。ほっとする間もなく今度はフロントガラスにぶち当たる。粘着性の体液の線がガラスに垂れる。「ア−ア」と声にする。少しの間、気持ちがふさぐが忘れてしまう。また数日たって同じことがおきる。すると、前回のことが記憶の巣からたちのぼり、チョウチョの腹の色やガラスに残ったシミの形が一瞬見えてくる。その日のことは別の回路をとおって記憶の巣に入っていくようだ。もともと運転が好きじゃないだけに、車をのろう気持ちがおきてくる。
 夜の帰り道ではカニやカエルをまきこんでしまう。固くかわいた音のするカニ。グチャと液状の音のするカエル。一瞬、アクセルから足がはなれる。しばらくは、その音が体じゅうをゆっくりとまわる。鳥肌が立ち、車輪の表面が自分の皮膚感覚となって体中をまわる。想像力が暗闇にひろがって、アスファルトの上のできたての煎餅を追いかける。
 時にこんなことがある。数10メートル先に茶色っぽいかたまりがライトに浮かぶ。近づくと、両のハサミを目いっぱい上げた大ぶりのカニ。まるで「来い!」とばかりに体を正面に向けて立っている。なんでもいいから近くの布を手にして車から降り、上にかぶせてひったくるように取ってもどる。大人のこぶし以上の甲羅をしたカニが、布のなかでもがいている。「食いたい!」と、頭のなかでは沸騰したナベが見えてくる。お疲れさまのごちそうなのだと思う。ひとつもかわいそうと思えないのが不思議。胃液が待ちかまえはじめる。
 他に、ホタル、トンボ、イモリ、ミミズク、ヘビなど。私の車は何度殺生したのだろうか。(コ)


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ワークキャンプ参加者からのメッセージ
  9月6日から約1週間の日程で、今年も本土の若者たちがヌーファへ作業をしにきてくれました。去年に続き今年で2度目のこのワークキャンプは、名古屋学院大学の学生が中心となって企画してくれたもの。食費などの実費を払ってヌーファに滞在し、林道の草刈りや机づくり、浄化槽の掃除などなど人手を必要とする大掛かりな作業を手伝ってくれるという、美らにとってはとてもありがたい企画です。大変な力仕事をなんとも楽しくやってくれました。おかげでヌーファはますます元気になっています。参加してくれた13人に心から感謝!
 今回は、そんな一人が届けてくれたステキなメッセージをご紹介します。

大きな生き物

ーワークキャンプの記憶ー
 “人間は昔、自然と一つだった”
 そんな事を言った、私の大好きな写真家がいた。彼は、ここ沖縄とはうって変わって、遠い北の大地、アラスカに居を置き、写真を通して自分を見つめていた。
 私は時々、不思議な感覚になることがある。何とも言えない、心地よい感覚。例えるなら、大きな流れに乗っている感覚、自分が本当の自分である感覚。それは、無我夢中だったり、何も考えてない状態だったり、色んなことが上手くいって坂道を転がっているような状態。ぜーんぜん説明できてないね(笑)。でも、確かに言えることは、その感覚を覚えた時は、なんか幸せだということ。
 じんぶんの里に降り立って、まず感じたことがある。それは“自然”という言葉の意味。そう言えば少し前に、“自然”という言葉の本当の意味を考えたことがある。今、この現代人によって使われている、“シゼン”という言葉の意味は、人と全く重なりの無い物として扱われている。例えばそれは、山だったり、川だったり、人の手がついてないもの、もしくはそんなに人の手が加えられてないものを指している。だけど、私の思う“自然”とは、色んなものとうまく付き合っていくための心地よい大きな“流れ”のこと。あの写真家が言った“人間は自然と一つだった”という意味は、その流れと、上手に付き合っていくことなんだろう。私が感じていた不思議な感覚とは、きっとこの、“自然”と一体になった時に覚える感覚だったんだと思う。
 沖縄で新しく出会った友達が、私にこんなことを話してくれた。「私は物事を結構感覚的に捉えるから、こんなこと思うのかもしれないけど、例えばね、明日やらなければいけないことがあったとするよね。でも、当日体調を崩してしまった。そんな時どうする?あなたは無理をしてでもやらなければいけないことをする?」「私はね、体調を崩してしまったということは、それはどこかからの“やらないほうがいいよ”って言うメッセージなんだと思う。だから、私はそのメッセージに従うの。」
 「はっ」っとした。実は、ここに来る少し前に、私はそれまで就いていた仕事を辞めた。夜遅くではなく、朝早くまで仕事をし、朝早く仕事に出る。そこにはにもう、“自分”という人間はいなくて、誰かに造られた“ジブン”の人生だった。そんな時だった、知り合いが以前お世話になっていたというお寺に遊びに行った。そこで「風呂に入らないか?」と誘われ、「はい」と答えた次の瞬間に出て来たものは、薪と斧。いくらこの寺が山のてっぺんにあって、ちょっと風変わりだからといっても、間違いなくここは名古屋市内。まさかと思ったが薪は次々と出てくる。私は錆びて先の丸まった、いかにもリタイア寸前の斧で薪を割り続けた。割った薪をかき集め、釜に火をおこした瞬間の、忘れもしないその時。見つめていた火が、薪を締め上げ、その細い木の繊維をくぐり抜けて来た火の匂いを嗅いだ瞬間。涙が、出た。私には何が起こったのか本当に分からなかった。ただ、懐かしくて、嬉しくて、幸せで、涙が、出た。思えば、それはあの子の言っていたような、どこかからのメッセージだったのかもしれない。そして、仕事を辞めた直後、偶然に目の前にやって来たじんぶんの里行きの話も、「あぁ、こりゃ、沖縄に行けって言うことだな」そんなことを思っていた。

 人間は元々“自然”とうまく付き合う力を持っていたらしい。でも、いつしか世界には物が溢れ、情報が溢れ、人間達は自分達の世界しか見なくなり、他の世界を遮断してしまった。じんぶんの里にいると、そんなちっぽけな人間達だけの世界の壁がふっと消える。どんなことが起こっても、すべてを一つの流れのように受入れることが出来る自分がいた。日が照ったら木陰に入り、夜がきたら、その闇を蛍光燈でかき消すのではなく、その中でランプを灯し、夜と調和して時を過ごす。私達がいた頃にちょうど台風が来たけれども、台風がきたって、受入れることが出来る。台風は海を荒らし、私達を脅かすけれども、海を循環させ、珊瑚を元気にするのだ。

 ここに来ると良く分かる。私達は皆、“自然”っていう大きな生き物のような中にいる小さな生き物だと言うことが。そこに、人間だとか、動物だとか、山だとか、海だとか、関係ない。そして、皆がこの大きな生き物とうまく付き合っていけるとしたら、それぞれ、お互い気持ちよく生きていけるのかもしれない。
 最後に、じぃじが話してくれた言葉 “Home & Away”。じんぶん(Away)に来て色んなことを感じ、そして、自分が生きる場所(Home)に持ち帰って欲しい、と。そして、持ち帰るだけではなく、その気持ちを、考えを元にHomeで何かアクションを起こして欲しい、ということ。じんぶんの里にいると感じやすかったけれども、私の住んでいるこの場所にも、この“自然”は確実にあって、その流れと上手く暮らしていこうと思う。じんぶんの里、ヌーファの浜、スタッフの皆ありがとう。(村上 範宏)


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「山原のくらしと自然ものがたり」 文:あんな
嘉陽のウシデーク
  旧暦の8月15日。嘉陽では、毎年ガジュマルの木の前でウシデークが行われます。
 ウシデーク(臼太鼓)とは、沖縄本島や周辺離島に伝わる豊年祈願と感謝の踊りの一つで、女性だけによる屋外円陣舞踊のこと(と、「沖縄を知る事典」にあります)。嘉陽では毎年この日に、絣の着物に紫の帯を前でしめ、頭に白いタオルを巻いた女性たちが、満月の下ガジュマルの木の前で左回りに円陣を描きながら踊ります。
 ウシデークの前(旧暦の8月11日)には、嘉陽にたくさんいる神様のうちの二つ、ヌン殿内(ヌンドゥルチ)とティンナトゥンチに、「今年も豊年を祈ってウシデークをやります。見守っていてくださいね。」と御願(うがん)をします。神さまと一度約束をしたら、それは絶対に守らなければいけないというが嘉陽の(きっと沖縄の他の地域も同じ)風習ですから、大雨だろうと台風だろうと必ず行事は暦どおりに行われます。というわけで、今年は台風14号の強風の中、例年よりも簡単な形ではありましたがウシデークは無事に執り行われました。
 嘉陽のウシデークで踊られる曲は全部で8曲。歌ごとに振りと曲調が変わっていきます。赤鉢巻きの手太鼓を持った3、4人の女性たちの後に扇二本を持った女性たちが続いて登場し、最初は一歩一歩進んで踊る「いかりいかり節」。音頭をとる一人が歌うと、他のみんながその後を合唱します。次は二本扇で中向きに踊る「金武節」。こねり手や拝み手などで踊る「ひし節」の次ぎは、再び扇を持って踊る「なかんかり節」、「東くま節」、「うむや木」。最後の2曲は四竹を打って踊り、賑やかな「恩納節」と「かぎやで風」で、女性たちは輪の中で神さまにひたすら祈りを届けと踊り、テンポや踊り、歌声が最高潮に達したところでウシデークは幕を閉じます。
 このウシデークで歌われる歌の歌詞は、琉球王国や村をほめたたえたものや、土地にまつわることがらを琉歌にしたものなのだそうです。今回ウシデークについて調べようと8曲の歌詞を手に入れたものの、渡されたのは全曲とも現在のおばぁたちが歌うのを聞いてそれを調子にあわせてひらがなにしたというものでした。アンナではどこまでで一区切りなのかもわからず、歌詞の意味を50代の嘉陽おばさんに聞いてみたところ、「おばぁたちと一緒に歌うために囃子(はやし)のところは覚えたんだけど、意味まではわからないさぁ」と言われました。これはさっそくゆきおばぁをつかまえて教えてもらわないと。
 ウシデークで歌われる歌はキーが高く、おばぁたちは高い声を出すためにスクガラス(小魚の塩漬け)を食べるのだそうです。そしてそのおばぁたちの声と太鼓の音が、山へ海へ響きわり、なんとも言えない幻想的な世界をつくっていきます。嘉陽を見守ってくれている神さまたちの温かさが感じられるときです。
 嘉陽にヌルおばぁ(ノロ)がいた頃は、絣の着物の上に白い衣をまとったヌルおばぁと、神女(かみんちゅ:ノロとともに昔から部落の安泰を神さまに祈ってきた女性)のおばぁたちが円陣の中心に立って、全体の指揮をとっていました。ヌルおばぁが亡くなった現在では、嘉陽で最長老のおばぁ(97歳)がその役をつとめていて、今も現役で嘉陽のウシデークを支えています。神さまと嘉陽の人たちをつなぎ続けるおばぁの力。それはとても神秘的で、立ち入ることのできない聖域のようなものなのかもしれません。
 そういえばアンナも、海へ出るときには必ず海の神さまにお祈りをしています。小さい頃おばぁに「竜宮神(リュウグシン:嘉陽の海の神さま)に手あわせてから海に出るんだよ。そうすればきっと守ってもらえるから。」と言われ、竜神さまの前で手をあわせられない時でも心の中で手を合わせ祈ることが習慣のようになっています。これまで何度と海で恐い思いをして、命を落としそうになったこともありましたが、今こうして元気にいられるのは、きっと嘉陽の神さまに助けてもらっていたからなのかもしれませんね。
 さて、嘉陽の大事な行事ウシデーク。いつまでも神さまたちに嘉陽を見守ってもらうためにも、嘉陽の大切な文化を残していくためにも、おばぁたちが元気なうちにしっかり習って後に続く人たちへ受け継いでいかなければいけません。まだまだ残っている大切な嘉陽の行事について、これから詳しく調べていきたいと思っています。このコーナーでも少しずつ紹介していきたいと思っていますのでお楽しみに!


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アキラのボラスタ体験記!
 埼玉から来たこの夏のボランティアスタッフ、金子暁くん(25歳)。
7月から8月の一番忙しい時期に、大いに汗して美らの力になってくれました。真っ白だった都会人が、この1ヶ月ですっかりヌーファの原住民に。そんなアキラのボラスタ体験記です。

 僕がエコネット・美の存在を知ったのは去年の9月あたりだった。たまたま「じんぶん学校」の番組をテレビで見たり、ちょうどその頃に友達がじんぶんに行ったことがあるという話しを聞いたりと色々な偶然が重なり、この夏ボランティアとして参加させてもらうことになった。
 実は、僕は1ヶ月という長期の旅行や合宿などは初めてで、ボランティアとしてもここまで長く一つの場所に滞在したのは初めてだった。おまけに電気もガスもない所での共同生活。とにかく全てが初めてずくし。ナーベラや、パパヤーを熟す前の緑の状態で野菜として食べたのも初めて。火おこしもあんなにたくさんしたのは初めて。海亀の孵化現場を偶然2度も見ることが出来たり、たくさんの流れ星や、七夕にしか見えないと思っていた雲のような天の川も初めてだった。オカヤドカリの「宿替え」も見ることができた。台風上陸の経験も初めてで何故かとてもワクワクした。台風後にヌーファへ行ったら、大きな木がボキボキ倒れていたり、浜にあったボードが家まで飛んできていたり、大人が何人いても動かないくらいの大きな流木が流れてきたりと、できたての台風のすごさを生で体験した。そして、忘れもしない「虫」の大群との共同生活。。。。夜中に「カサッ」という音や耳元に急に飛んでくる虫に何度驚かされたことか。結局それが恐くて夜は一度もトイレに行かずじまい。お風呂も夜は1人では入れず夕方の明るいうちに入ったり、夜は誰かと一緒に入れない時は入らなかった。
 自然の中で暮らすことがこんなにのんびり心が休まるものだとは思っていなかった。そしてそれ以上に強く感じたことは、そこに住んでいる人たちの人の「温かさ」や「やさしさ」だった。ここにいる間はとても時間の流れや人の流れがゆっくりして、人のやさしさを感じることが出来た。だからこそ、そこに集ってくる人も温かい人たちなんだと。(そして、そこに来た自分もきっとそんな一人!?)。この夏に初めて出会った僕のために色々なことを教えてくれ、みんなにとてもお世話になった。東京に住んでいるからという言い訳はしたくないが、いつ、どこにいてもどんな時でもやさしい自分でいたいというのを強く思った。それがなりたい自分なんだと、あらためて気づくことが出来たということが、ここでの一番大きな収穫だった。まだ自分の中でうまく整理できてはいないが、たまに振り返ってあの時の自分を思い出してみたいと思う。そしてそして、またあの場所へいつか戻りたいと思っている。

最後に今回お世話になった全ての皆さんへ。本当にありがとう。
今度は僕ががんばっている姿をみんなに見せる番ですね。期待していてくださいね!

 最後に僕が沖縄で好きになった言葉。
「でぇじ!」「しに!」「あいや〜!!」


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その後の名護(六)
 辺野古の周辺が大きく変わろうとしている。「マルチメディア館」、「国際海洋環境情報センター」の建設・増設に加え、国立高等専門学校および学生寮の建設が急ピッチで進んでいる。
 辺野古も裏山の一つは学生寮などの建設のためあとかたも無くなり、バイパスをはさんだ隣には校舎群が二つの山を削りとって建設がすすんでいる。閑古鳥のなく辺野古のバー街、静かな辺野古の集落。時おり山すそからきこえる実弾訓練の音。国立高専は、その実弾演習場と辺野古部落の間にどちらも見おろすように建つことになる。普天間米軍基地の移設にともなう北部振興策事業は着々とその姿をあらわしてきている。それらに引き寄せられるように、コンビニのまばゆい光が闇をてらし始めた。
 国立高専の建設現場から海を見ると、そこが普天間米軍基地の代替施設飛行場建設場所である。サンゴ礁の海を10トンダンプ300万台分の土で埋める「生き埋め工法」によるものである。国立高専と海上代替米軍基地の組合せは、辺野古の歴史にまた新たな一ページを加えることになる。私は、デジカメで国立高専の建設の進行を記録している。カメラを180度まわすと辺野古の広大なイノーが何も知らぬままに今日もある。それを見る。

 海上基地建設のための環境アセスメントが始まろうとしている。今日、9月23日(火)午後一時から、「沖縄ジュゴン環境アセスメント監視団」結成総会が、名護市大中区公民館で開かれた。海上ヘリ基地建設をなんとか止められないかを模索してのものだ。日本政府の行う環境アセスメントを監視しながら、アメリカの法を使っての抵抗などを折り込んだかなり長期的プログラムのもとにスタートしたものである。名古屋の籠橋隆明弁護士を中心に15名の本土・沖縄の弁護団とともに、公害調停なども具体的プログラムに置いている。今日採決された「監視団規約」の第一条にはこう記されている。
 「沖縄ジュゴン環境アセスメント監視団は、自然保護とジュゴンをはじめ生きとし生けるものの立場から、辺野古の海上基地建設に向けた環境評価手続きが完了するまでの間に、海上基地建設を断念させることによって、辺野古の海と沖縄のジュゴンを守り育てることを目的とする。」
 団長には、東恩納琢磨氏(ジュゴン保護基金委員会)が選ばれ、沖縄のいくつかの反戦平和団体、学者、弁護団など計5団体が加わっている。
 長く続くヘリ基地問題で疲れ、沈んでいた名護のヘリ基地反対運動に、今までにない光がさし込んできたように感じられる。なるほどこういう方法もあったのか、と思えるいくつかの具体的プログラムは、名護の市民にまた別の思考枠を掲示しているように思える。それが楽しみだ。
 「沖縄ジュゴン環境アセスメント監視団」の会員を募集している。沖縄側だけで解決できない問題だけに、本土の人々が何かアクションをおこすきっかけになってくれたらと思う。エコネット・美のアンナも、運営委員に入ってやることになった。沖縄サンゴ礁を土で埋めることに本能的違和感をもっている私たちにとって、今回の監視団結成は新たな局面への一歩となるだろう。
 辺野古のことについて『けーし風』の最新号に少し書きました。商人としての視点で書いてみましたので一読してもらえたら嬉しい。(コ)


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