美ら通信 第11号 2003年1月15日発行
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 美ら日記(12) 
ヌーファの森から
  ヌーファの上空にサシバが舞っている。目的地に行けなかった渡り鳥の越冬の地として毎年やってくる。キー・ピーと、肉食鳥独特のかん高い音がヌーファのきり立った稜線の上に響きわたる。まっ青な空に翼を微動だにしない肉食渡り鳥・サシバ。こちらが照れてしまうほどの光景だ。
 サシバが飛ぶとカラスの姿が見えない。夏にサシバがいなくなるとあれほど我が世を謳歌するカラスはどこへ行ったのか。
 こんなことがあった。ヌーファの石段の近くの樹の上がやたらにさわがしい。コウモリが出たにしては時間が早すぎる。山に入って近くにいく。サシバが樹の枝に逆さになってぶら下がっている。まわりでカラスがはしゃぎ、弱っていく命に照準をあわせている気配が伝わってくる。それでもがっしりと枝をつかむサシバの鋭い爪。ぶら下がりながらも頭部をくるくるとまわして次の行動をさがす肉食鳥の鋭い眼。次々にその数を増やすカラス。尽きようとする命と、それを餌とねらう黒いかたまり。ひと声あげて樹々の中に最後の滑降を試みるサシバ。追うカラスの群。ドサッという音と我さきを争うカラスの叫び。ヌーファの森の命のわたり合いが始まり、そして終わった。
 そういえば、あの夥しいマダラコウロギやホタルや蝶は、命たえた後どうしたのだろう。山に生き物の死骸の痕跡も見えない。たまに、蝶の片羽根だけが風にふかれて木の葉にのっかっているのが見える。自らの命を自然に還すことは知っている無数の小さな生き物たち。次の生き物の後ろだて(クサティ)となって存分に還っていく。そんな命の森に今年も入らせてもらうことにする。
 2002年度も終わり、エコネット・美も今年で6年目に入る。まだまだ序章が始まったばかり。切れ目なく次々と出してくるヌーファでの仕事も、ひとつの形をつくりつつある。倦まずたゆまず、そしてなによりも楽しんで今年の石を積み上げてみる。気負わず、閉じず、また見知らぬ人との出会いを楽しみにしたい。


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オニヒトデ退治します!
  オニヒトデは、ご存知のようにサンゴを食べてしまうヒトデです。ヒトデの中でも大型で、おなじみの5本腕のヒトデと違い十数本もの腕を持っています。体の表面にはたくさんの大きな刺があって、その一本一本に毒があります。見るからに毒々しい形相をしたグロテスクなヒトデです。
 オニヒトデは1969年頃から沖縄本島沿岸周辺で大発生しました。その後も駆除をするものの何度も大発生をくり返し、1970年代には本島や周辺の離島でサンゴ礁が丸坊主にされてしまったこともありました。生きたサンゴの上に覆いかぶさり、柔らかい胃袋を口から外に出して直接サンゴに消化液をかけ、体外で消化し吸収するのだそうです。まさに化け物のみたいなヤツです。他にもサンゴを食べる生き物はいますが、オニヒトデの食べ方はサンゴを破壊しつくしてしまうという恐ろしさがあります。
 オニヒトデは直系30センチのメスで1千万個くらいの卵をもっているそうで、産卵時期は7月頃から1ヶ月くらいの間とのこと。捕獲の際、気を付けなければならないことは、体を水中でバラバラに分解してしまうとその一部からからまた生成され、逆に増やしてしまうことになることです。
 オニヒトデが大量発生する原因は、異常気象であるとか天敵のほら貝が少なくなったこととのことですが、ほら貝が減ったのは人間の採りすぎによるものです。人間が引き起こした問題であるならば、私たちが自然に働きかけてバランスを取り戻す必要があります。そこで、今年は本格的に美らとしてオニヒトデ退治をすることになりました。皆様のご協力をお願いします。「ぜひオニヒトデ退治したい!」という方はどしどしお問合せください。



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「山原のくらしと自然ものがたり」 文:あんな
ゆきおばぁと薪
 
電気もガスもない『じんぶん学校』では、もちろんご飯を炊くのもお風呂を沸かすのも全て薪。薪集めや薪割りの仕事はヌーファでくらすのには欠かせないもので、そして一番なんぎで時間のかかる仕事。薪がくらしの全てを支えているわけです。たむんじゃー(薪小屋)の薪が少なくなるとなんだか心細くなって寝ても覚めても薪のことばかり考えるようになります。そうしてしばらくすると、山を歩いても、浜を歩いても、車を走らせていても、目に写る木という木が薪に見えてくる。話すことと言えば、「あそこに薪にするのにいい木がある」とか・・・。これを美らでは『重度の薪症候群』と呼んでいます。
 さて、去年の暮れ、美らではスタッフ総出で薪にする流木を船をつかって集めました。浜から歩いて流木を拾う班と船でそれを運搬する班と・・・。二日がかりの大作業でした。その様子を見ていたゆきおばぁが「ならんさぁ」と一緒に浜を歩くことに。
 ゆきおばぁは、嘉陽に住む73歳のスーパーウーマン。農業を営むかたわら、『じんぶん学校』でガイドの先生として、また現役トップスターガイドとして、美らの大きな原動力になってくれています。お料理が上手で、海を歩く(大潮の日にリーフへ出て、ウニやサザエやタコなどを獲る)のが大好きで、優しく笑顔のステキなおばぁ。
 その日ゆきおばぁは、誰よりも早く浜を歩き、誰よりもたくさんの薪をなんとも手際よく集めていまいた。アンナは船班で、その様子を海から見ていたのですが、どうもおばぁは木を選んで拾っているよう。よさそうな木がすぐ前にあるのにそれには見向きもせずに別の木のことろへ向かう。さわりもしない。みるみるうちに浜辺に積まれていく薪の山。そして束になった薪をひょいと肩にのせてまたその山に向かって歩いてくる。一緒に浜を歩いていたじぃじたちはおばぁの姿にすっかり圧倒されてしまっているようでした。
 積まれた薪を見てみると、海の上を長いこと漂っていたためどれも皮がはがれ似たような格好。選ぶにしても、いったいゆきおばぁはどこを見て決めているのだろう。決め手は?ポイントは?何を思って???
 そこで今回はゆきおばぁに薪のお話しを聞いてみました。

ゆきおばぁ:おばぁが若い頃はよ、何時間も歩いて山に行ってたくさん薪を集めたさぁ。
アンナ:薪を集める仕事はお母さんの仕事だったの?
ゆき:いいん。本当はおやじの仕事だけど、うちはおやじが大工だから私がやっていたわけ。でも戦争でおっとー(お父さん)のいない家はみんなおっかー(お母さん)がやっていたよ。金持ちのうちは馬をもっていて数倍たくさん薪があつめられたさぁ。
アンナ:ゆきおばぁのうちは?
ゆき:うちは馬は持っていなかった。だからかついで運んでいたよ。背中が痛くないように、薪と背中の間にゆだぐゎー(小枝)をたくさん敷いてクッション代わりにしてたさぁ。してそのゆだぐゎーで火をつけよったわけ。
アンナ:薪にする木はどんな木だったの?
ゆき:たくさんあるのはシイの木だったから、シイの木はよく取りよった。まっすぐしてるしそんなに重くないから運びやすいし、割りやすかった。でも重くない木は火持ちが悪いわけよ。ティカチャー(シャリンバイ)は上等よ。あれはそんなに割りやすくはないが火持ちがいいし、乾きやすい。正月なんかは緑のティカチャーを切ってきて、割ってから乾きやすいように組んでいたさぁ。2,3日で乾くし長らく火つけていないといけない時はあれが便利だった。イジュは火持ちはするんだけど割りにくいし重かった。まーち(松)は油があるから燃えやすいんだけど、あれは真っ黒い煙がでて鍋にすすがつくから使いたくなかったねぇ。ハゼの木やシチャマンギー(エゴの木)なんかは火持ちもそんなに悪くないし割りやすいから取っていたよ。
アンナ:薪を使っていたのはいつ頃まで?
ゆき:戦後まだしばらく山に入っていたからねぇ。いつ頃までかねぇ?そんなに古くはないはずよ。あはぁ、東京オリンピックの頃までだはずよ。あのあと急に色々便利になったんだから。
アンナ:東京オリンピックかぁ。アンナの母さんが高校生の時だから・・・。
ゆき:してよ、昔は薪を買いに来る船があったよ。売る薪はきれいにそろえて切って、竹で編んだゴールー(輪)で束ねて浜にもっていきよったよ。ゴールーの大きさが決まっていて、束でいくらって決まっていたわけ。
アンナ:どんな薪でも値段は一緒だったの?
ゆき:いいん。シャリンバイとかイーク(もっこく)やアデクみたいに切り口が赤い木は高かった。火持ちがよくてよく燃える木なわけ。シイの木みたい白い木はその十分の一くらいだったさぁ。
アンナ:はぁ、勉強になった!ありがとぉ。
ゆき:ううん、おばぁは何にもわからないよ。だぁ、ムーチー作ったからもっていって。

 ゆきおばぁはヌーファでご飯を作る時も、ぜったい薪を無駄に使うことはありません。火おこしをマスターした人は、最初のうちはだいたい薪を燃やすことに必死になってしまうものですが、薪づくりの大変さを知っているおばぁは、メニューと燃費を考えて上手に薪を回転させるわけです。『ザッ!じんぶんのかたまり!!』薪の達人はくらしの達人なのかもしれませんね。
 2003年もますますじんぶんつけて頑張ります!


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その後の名護(四)
 静まりかえる名護。静まりかえる「米軍普天間基地の辺野古沖移設」。現在の進行状況とそれをとりまく状況を整理してみる。
 (1)米軍の辺野古沖移設(海上新基地建設)の工法は、「埋め立て工法」と決定。
 (2)具体的建設に向けて、代替施設協議会に代わる国・県・市の新たな協議機会の早期立上げ。
 (3)ジュゴンの藻場の移動を環境庁が指示。
 (4)年内に環境アセス開始予定。
 これらの海上新基地建設の具体化は、すべて昨年の第九回代替施設協議会においてその道すじがつけられたものであり、現在、沖縄県がとっている立場は次のものである。
 (1)新たな協議機関において、次の3点を国に確約させる。
  1.「15年使用期限」(海上新基地の米軍使用を15年間と限定する)の保証をとりつけること。
  2.基地受け入れ見返り振興策、特に基地受け入れ地元および周辺市町村への振興策の具体化を確約させること。
  3.「日米地位協定」を、運用面にとどめず協定内容の改定を求めること。
 名護市の側は、「基地受入れ」を発表したのだから、後はその見返り振興策の完全実施に向けて国と県が交渉すべき段階にきている、という立場である。もちろん、新たに設立される協議機関に名護市も東村、宜野座村も加わっているわけで、基地受け入れの見返り事業の担保をできるだけ多く取ろうとしていることは明白である。宜野座村においても名護市においてもその見返り事業はスタートしており、さらなる上積みをねらっての交渉、かけひきということである。宜野座村の「かんなタラソセンター」は、海洋型健康増進施設としては県内最大のもので、総事業費24億2千万円近くのものである。名護市も、「マルチメディア館」、「食肉加工センター」、そして「国立高専」など大型事業が次々と立ち上がっている。まずは、振興策の現実化を地元住民に見せつける、という従来からの手法である。沖縄の本土復帰以来、日本政府がとってきた沖縄支配の方策がまだ続いているということにすぎない。「かんなタラソセンター」が落成したその日、自民党有志の議員連盟「日米地位協定の改定を目指し日米の真のパートナ−シップを実現する会」(会長・小島敏男/事務局長・下地幹郎)が来年2月12日に、東京で協定改正に向けたシンポジウムを開催することが発表された。多発する米軍人、軍属による事件、事故への県民感情を和らげつつ、具体的な米軍新基地建設を促進する、という構図が透けて見える。
 米国の一極支配が進む世界の動きに追従し続ける日本国のなかで、沖縄は日米安保条約の具体的機能を実践すべく着々と軍事の島としてその姿を変えつつある。本土復帰30年にして初めての大型米軍基地建設が始まろうとしている。今回の辺野古沖米軍新基地建設は、「埋め立て工法」という沖縄の海の命を死に追いやる工法であることを、どれだけの本土の人々が知っていることだろう。「いやしの島・沖縄」と勝手にレッテルをはって、イヤなものは沖縄に押しつけておけばいい、とするこの本土側の暗黙のエゴイズム。なんということか。 NHKは、「ちゅらさん・パートU」を決定したという。他の人々の痛みを知らぬ人たちに、「有事法制」は娯楽番組の一つでしかないのかもしれない。今日1月14日、沖縄からバクダットに向けて民衆の連体を求めた一行7人が旅立った。



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お便りコーナー
 「国連・国際エコツーリズム年」の昨年、「エコツーリズム国際大会・沖縄」」が11月末に開催されました。海外を含め様々な地域から、エコツーに興味をもっている人たちや各地でエコツーを展開している方たちが参加しました。大会のプログラムの一つフィールドワークで、『じんぶん学校』を訪れてくれた方々から頂いたメッセージです。

私は沖縄の人間ですが、あんな所にじんぶん学校があるのも知りませんでした。海水で作ったゆしどーふのお昼は最高に美味しかったです。じんぶん学校の集客キャパは、浄化槽のキャパでもあるということ。エコなんだと実感しました。金を掛けずに地元の智恵で作られたじんぶん学校に学ぶことが沢山ありました。(沖縄県)

エコツーリズムのケーススタディーとしては、大変分かりやすい代表例だと思いました。私は、「今」の行き詰まりは、その始まった「昔」を思い出すことに解決の糸口があると考えています。このことを証明できる事例だと思いました。(東京都)

参加して本当に良かったです。エコツアーといっても様々なものがあると思います。大切なことはガイドが何を思ってやっているのかを知ることだと思いました。それが分からなければ、ただの体験型観光になってしまいます。観光客が何を求めて来ているかを察して満足してもらうように努めることも大切ですが、そんな受け身のガイドより、ガイド自身がこんなところが好きだとか、楽しそうにガイドしてもらった方が本当に楽しめるなあと気付いたツアーでした。(愛知県)

自然だけでなく、そこに密着した地域の智恵に触れられたことはとても良い経験になった。エコツーリズムを考える時に重視しやすいのは、自然というものだが、その地域を知る上でも、その自然と共に生きて来た文化を知ることの重要性を認識できた。そして何より楽しかったし、おばーのゆしどーふ忘れられません。また来ま〜す!(沖縄県)

東京から仕事で沖縄に住み、定年後も沖縄へ住みたいという人たちの気持ちが分かりました。私のパンブスを見つけ、スニーカーを貸して下さったような気づかいがあってこそエコツアーは成り立つのでしょう。キャパの限界を認識し制限しての客受入れ、理念だけでなくビジネスとして成立させている好例を見せていただきました。絶妙なバランス感覚の経営手法です。他の地域へも拡がってくれればと願います。(福岡県)


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