不動の言い方に、ほんとに腹がたって。
売り言葉に買い言葉。
「できる!」と自分で言った手前。
ここは不動のアパートの手狭なキッチン。
右手にはスマホ、左手は今、パタパタとキッチンの棚を開けている。
不動のアパートのこのキッチンは整頓されているのはいいが、調理器具が仕舞い込まれすぎてて何がどこにあるのかいまいちわからない。ウチの実家の台所は、お手伝いさん・時々母親・まれに姉・年1〜2回兄が使うので、何がどこにあるか見える化されている。大違いだ。佐久間家系の基本、武士でもないのに「男子厨房に入らず」だ。
「あったあった、フライパン」
例えば、この手のフライパン。
ウチの実家も源田の家も、台所の壁やフックにかかってすぐ使えるようになっている。
だが、不動の場合、キッチンの足元の棚に立てて仕舞われている。しかも、フライパンの種類が重ねるように縦置きされて、どのフライパンが日常使いかわからない。多分、四角い小さいやつだろう。
「だし巻き卵、作り方、・・・」
スマホは便利だ。レシピが写真付きででてくる。
大方はわかる。卵を割って、混ぜて、フライパンで焼くのだ。
だし、というものは何か、昆布とか、鰹節とか、そういうものからとれる、グルタミン、そんな感じの名前の成分、そういうものを入れると美味しくなる、そんな感じだ。中等部の家庭科で習ったぞ。
いつもはたいがい不動が早めに起床して朝飯を作ってくれるのはありがたい。
しかし、問題は朝食に”生卵”が出てくるところだ。
最初の日は、ほんとに意味がわからなくて。
「何キョトン顔してんだよ、白米に生卵かけて食べるんだよ」
「いや、不動」
不動の右手に白い生卵が握られて、トントンと器用に卵とテーブルがぶつかる小さな音。
卵の殻が綺麗に左右に手の中でわかれて、不動の大きめな茶碗のアツアツの白米の上に生卵がのっている。
「不動、・・・無理」
「はぁ?何、無理って。しらねぇの?卵かけご飯」
実家では見たことがない。帝国学園のカフェテリアにでてきたこともない。
ギリギリあって、ダシ汁に浸る温泉卵。かいわれ大根が載せられた小鉢のやつ。
「じゃぁ、いいよ。朝メシ、食うな」
無理、といわれて不動が機嫌を損ねたのか、卓上の俺の生卵が冷蔵庫に戻される。
「だいたい佐久間、お前、この前の今半でちゃんとスキヤキで生卵食ってたじゃねーか」
「いや、スキヤキには生卵だけど、白米に生卵かけるのは、なんかイヤだ」
じゃぁ、もういい、お前、今日は朝メシ食うな!と威嚇される。それは困る。
「悪かった。朝食たべたい」
仕方ないので、指で小皿の中の黄色い漬物を1枚だけ不動の小皿に差し入れした。
「いや、じろうちゃん?何それ。どのみち、その漬けモン、俺んちの冷蔵庫のなんだけど」
無言で、もう一枚の漬物を不動の小皿に移動させようとしたら「もういいから、さっさと食え」と指でシッシとされた。
食後のお茶とコーヒーは各自で入れて、ぼんやりしていると、不動が歯磨きから帰ってきた。
「佐久間、お前、卵料理って何が得意よ?」
「得意?・・・・得意・・・?」
食べるほうの得意の意味かと思ったが、不動が手元で何かを作るジェスチャーをして、”得意な料理”を聞かれたことに気づく。得意料理・・・?料理自体、授業以外ではしたことがないが。
不動の顔がみるみる「聞かなきゃよかった」というジト目になる。
「お前、絶対キッチンに立つなよ」
「なんでだよ」
卓上の電気ケトルから出る湯気。たしかに、ヤカンを使ったのは部活と林間学校くらいだ。
「お前が火傷でもしたら、俺が鬼道クンに怒られるから」
「なんでだ」
”過保護すぎんだよ”とフンと鼻を鳴らして緑茶のカンの筒を不動は開けた。
「料理できねぇなら、すんなって話してんの。料理は、火ぃ使うから、簡単に火傷すんだよ。湯でも湯気でも」
知ってるか?佐久間、70度以上の高温だと、1秒足らずで皮膚組織ってのは破壊されんだ。お前、この前、タンブラーに入れた熱湯のコーヒー、カップを指でもって注ごうとして、気圧で吹き出たコーヒーで指やけどしかけて、カップ落として台無しにしただろ、と早口に捲し立てられる。
「だって、あんな吹き出すなんて知らなかったんだ」
「熱湯をいれたタンブラーをすぐ蓋してほっとくからだ。圧力鍋っての知らねぇのか」
そっから気圧と温度の理科のような話をされ。
不動がちょっと何を言ってるのかわからないので、不動の口元だけ見てた。
歯並びが意外と綺麗なことにきづいた。
「ほらみろ、わかってねぇツラしやがって。料理なんて、できねぇんだから」
「できるさ!」
・・・からの、今朝のこのキッチンの俺である。
インターネットのレシピはすごい。卵の割り方まで丁寧に動画で紹介されている。便利だ。
”顆粒和風だし”というものは、よくわからないが、調べると、鰹節や昆布などを粉末にした商品らしい。不動のキッチンのストッカーをいくつか確認すると、なんとなくそれらしいものがあった。
なるほど、これを混ぜる。水、砂糖もまぜるらしい。なるほど、ダシの粉を溶いた卵に入れるだけではないか。
そして「うすくちしょうゆ」というものも入れるらしい。うすくちしょうゆ?
しょうゆに、薄いも濃いもあるのか?
調べたら、しょうゆには色々な種類があるらしい。おお・・・しょうゆ、お前、こんなに・・・。
調味料棚にしょうゆらしきものがないので、もしやとおもって冷蔵庫を確認すると、コーラペットボトルの横にしょうゆのボトルがあった。わかりづらい。しょうゆ、お前、コーラと同化しかかってる。
首尾よく材料を混ぜ合わせて、熱くしたフライパンに卵をいれようとして気づいた。
お手伝いさんは確か、このフライパンに”油”を入れていたはず。ちょっと前に帰省した時、同じく里帰りしていた姉がコーティング加工されていないフライパンを使って、油をいれずに料理を焦がして、母親に怒られていたのをみたことがある。油、そう油だ。大事。
いったんコンロの火を止める。
油・・・、油をさがす。
おい、不動、お前のキッチン、油の種類が多すぎる!
「どれを・・・つかうんだ・・・」
よくわからない種類、常温に4種類、冷蔵に4種類。プラス、バターやマーガリン。牛脂とかかれたキャンディの袋みたいなのは、多分、これも油の一種。
一番有名なのは、サラダ油ではないか?みたことがある。
部室の鍵の調子が悪い時、辺見がサラダ油をもってきて対処したことがある。
そのあと、鍵の中のシリンダーが壊れて、全員が大目玉をくらった。
サラダ油というものを探すが、その名前のものはない。
キャノーラ?という油があるが。何その名前、怖い。
次にコンビニに売ってそうなデザインのオリーブオイルがあったので、これを使うことにした。
不動が作ったサラダにもかかっていることもあるし、こいつで間違いはないだろう。
フライパンにオリーブオイルを入れようと傾けると、思った以上に量が入り、手にも油がついた。両手をざっと流水で洗う。
あらためて、フライパンの柄をもって、排水溝に余計なオリーブオイルを流そうとした時。
ばちん!!
と大きな音がして油が大きく跳ねた。何?何だ?!
焦った手元でフライパンが揺れて、傾いたフライパンから油が飛んで、キッチンのシンクにかかっていた乾いた青い布巾にフライパンがぶつかる。
もう、一瞬である。
ああ、今の「ばちん!」という音は、手についた水分が油の上を水切りしながら蒸発した音か、なんて思っていた時。
目の前が。
火柱。
である。
なんで?どうして?火?!
人間、驚愕すると「うわぁ」とか「あー」なんて声は出ない。
「うおおおおおおおおお!!」
咆哮である。
腹の底からすごい、声がでる。
背後ですごい足音が響いた。
「サクマ?!」
完全に飛び起きたままの下着1枚の姿の不動。
キッチンに飛び込んできて、電光石火で小さな消火スプレーをコンロ一面にぶちまいた。
「おい!お前!」
びっくりした顔はお互い様。
お、お、お、怒られる!!
これは、完全にキレられる。
秒でキレちらかる。
完全、凍った、空気。
「佐久間!怪我は!?」
「・・・・」
動けずにいるこちらの顔、手、足、ついでにTシャツの下の腹を、不動は手で丁寧に触れて確認していく。
「火傷してねぇか?」
軽度の火傷は表面的には無傷にみえるから、と。
「あ・・・」
心配そうな不動の瞳が揺れてた。
「不動、・・・悪かった・・・」
こっちが声を出したのを見て、不動が落胆してため息をついて、次の瞬間。
やっぱりの、怒りの目である。
「てめぇ!ビックリして俺の心臓止まったらどうすんだよ!!」
「悪かった!」
殴られる、と思った。目をつぶった。
「おめぇさ、佐久間、俺の心臓とまったら、俺の代わりにスペインで司令塔できんのかよ?」
「いや、むり、むり」
後ずさるが、後ろは消火スプレーのアワアワだ。
「てめぇは、できないって、自分でわかってること。やるなって言ってんだよ!」
怒声がそこで終わり、強い舌打ちのあと洗面所からタライとバケツとタオル数枚を不動は持ち込んだ。
「おい佐久間」
渡されたタオルを手にとる。
「しょうがねぇから、・・・キッチンの消火剤片付けたら、ファミレスいこうぜ」
「でも、卵が」
ボウルの中を見ると、見事に消火剤の泡が混入していた。無駄にした。多分、不動がすごく怒るやつ。無駄にしたこと。
「もういいよ、高い卵かわりに買えよ。それで許してやるから、片付けしとけよな」
「不動」
手伝ってくれ、と言える雰囲気ではなくそのまま不動は寝室に戻っていった。
–
夕刻からの出勤となった本日。
帝国学園総帥である俺の前で、佐久間が上機嫌に何かの話をしている。
「それでさ、鬼道、聞いてくれよ。1メーターくらいの火柱がさ?こう!こうだな!」
佐久間は両手で1メーター幅を作って上下させている。
「火柱?佐久間、何の話をしているんだ」
「何って、不動のアパートで卵を焼こうとしたら、火柱が、こう、こんな感じに!」
何を言ってるんだ?こいつは。
卵ではなく、こいつ、不動のアパートを焼こうとしたのではないか?
「それで、佐久間。火傷は?」
「無事だ。火は不動が消してくれた。起きてパンイチで」
可哀想すぎる。不動。
可哀想すぎる・・・パンイチで・・・消火・・・。
「佐久間。あとで不動にしっかり事情を聞く。お前は練習コートでの指導を頼む」
「ああ、鬼道」
佐久間の後ろ姿をみおくって、不動に電話をかける。
”なに〜?”と気のぬけた不動の声がした。
向こうも監督業として賑やからしく、教え子の子供達の声が背景で響いた。
『どうした、鬼道クン』
「火事の話だ」
『ああ、佐久間の?ほんと、あいつさぁ・・・』
ノンストップで不動の今朝の火事の愚痴がはじまった。
ここから10分。
愚痴が間抜けた惚気話になっていることに、不動は気づいているだろうか?
『そんで、そん時の佐久間の顔がさぁ』
───────また不動監督、彼女の話してる!
電話越しの教え子のツッコミの声。
「彼女じゃねーよ!」という不動の怒声の後、付き合いきれなくてこちらから通話を切った。
執務デスクの上で綺麗な湯気を上げていた。
先刻、佐久間が淹れたコーヒーだ。
『いいフレーバーだろう?鬼道。この上質な香り。脳の情報処理能力が高まるそうだ』
興味と関心があること以外、10年前から何も変わっていない。
「火柱か・・・」
情景を思い出して、コーヒーを唇から離した。