海の日

 バイトが、あるんだけど。
 綱海から切り出された時、へぇ、と顔を上げて靴紐を解く手を止めた。
「音村も監視員、やんね?」
「監視員?何の」
 聞けば、海洋レジャーセンターで、無人島の監視員を募集しており。
 ある程度の公式の講習を受ければ、のんびりとした割のいいバイトらしい。
「ほら、あったかくなってきたけど、まだ3月だろ?結構まだ暇らしいんだよ」
「春休み期間なら、いいよ」
 やったぜ!約束だぜ!と綱海が白い歯を見せて口角をあげた。
 同じように、俺も目を細めた。”春休みなら、いいよ”と念を押して。

 結局、その約束は自然消滅した。
 綱海に対し、あのバイトの話、どうなった?と切り出すとしても、綱海自体がここには居なかった。
 綱海はサッカーチームの選抜メンバーとして抜擢され、結局その後、今のところは戻ってきていない。
 大会は終わっているはずだが、その年の冬になっても学校に戻ることはなかった。

 ”彼は雷門に編入した”、”どうも高校受験は推薦で都内の高校に行くらしい”。
 そんな話を聞いたのは、11月の頃だった。
 この季節、推薦入試などとっくに終わっている頃だ。
 俺自身も1年後の高校受験のために中2の今から準備を進めていたし、なんとなく綱海に行った高校に入ろう・・・くらいの考えしかなかった。
 なんとなく、それが自然に思えたからだ。
 別に同じ高校に行こうぜ!なんて約束したわけではない、ただ、なんとなく連れ立ってるのが自然に思えた、それだけだった。

 ただ綱海がどこに進学するとしても、一言、合格の知らせはあってもいいんじゃないか?と心の奥深くで呟く。
 心の奥のササクレは、苛立ちの感情と似ていた。
 ため息をついて、深呼吸すれば、それは苛立ちではなく寂寥の様な、小さなセンチメントだと気づく。
 しかし、本当に綱海は”ここ”に戻らないのかを確かめなければ気が済まず、携帯を手にしていた。

 呼び出しの音がなり、胸に響く心臓の音が大きくなった。
 さぁ、どうやって切り出そう?
 そうだ!俺自身の話から切り出そう。
 俺は、地元のS高校を志望校って書いたんだけど。
 そう、あの高校、音楽の設備もいっぱいあって、有名だろ?
 音大への進学者も多いらしい。
 で、綱海はどこに行く(進学)んだ?
 こんな切り出しで行こう。

 呼び出しの音から、留守電の無機質な音声となった。
 綱海が、電話に出ることはなかった。そのまま赤い「通話停止」のマークを指でなぞる。
 綱海は昔から、着信履歴が残っていても慌てて掛け直してくることはない。
 そんな感じだし、それが自然だと思っていた。

 数週間後の12月の頭。綱海は何の連絡もなく実家に帰ってきていた。
 誰かが綱海の帰省を教えてくれて、そのまま俺は自転車を飛ばして綱海の家に向かっていた。
 前もって連絡はしない。居なかったら、居なかったで、それでいい。
 島のほとんどの人は、そういうリズムで生活していたし、それが自然だった。
 自転車から降り、息を整え、もういちど深呼吸する。
 やや厚着をしたフードの下の肌が汗ばむ。

「音村、お!どうした?」
 12月というのに、半袖の薄着のまま玄関に出てきた綱海は、いまのいままで確実に昼寝していた姿だった。
「綱海、帰ってきてんじゃん」
「ん・・・、ちょっとだけな」
 綱海は白いシャツの裾側から手を入れて、胸を軽く掻いて、大きく口を開けて欠伸をした。
「!」
 シャツの裾から、ふいに綺麗な腹筋が見えて、その瞬間に目をそらしてしまった。
 こいつ、こんなに筋肉質じゃなかったはずなのに。でもなんで俺が目を逸らさなきゃいけないんだ。何でもないただの男の腹じゃないか。

 そんな俺の小さな動揺に気づいていない綱海は俺の背中を軽く押して、そのまま低い石垣を通り過ぎる。舗装もまばらな道は、次第に砂混じりの砂利になっていく。海が、近いんだ。
 無言で2人が歩き出すその先は、小さい頃からよく遊んだ砂浜近くの公園。
 ベンチの下に、誰かが忘れていったオレンジ色のバスケットボールがあった。
 海の音がひときわ大きくなり、ヘッドフォンをしている耳にも届いた。

「綱海、元気でよかった」
 ”たまには連絡くらいよこせよ”とは言えず、俺は綱海と、その後ろに映える空と海の境目の切ったような直線を見つめた。綱海は”俺は、いつでも元気だぜ?”そう返し、言葉を続ける。

「島のみんな元気で安心したぜ!」

 海風に、綱海の淡い桃色の髪が揺れた。以前と同じ笑顔で彼はそこにいた。
 しかし、傾く太陽の陰影が作るシルエット。綱海の身体のシルエットは俺が知ってるものではなかった。
「綱海、優勝、おめでとう」
「お?おお!サンキューな!」

 直接、言いたかった言葉を掛ければ、綱海は軽く往なすように、はにかんでそう流すのだ。
 元気でよかったな、サンキュー、今日何食う?くらいの言葉のリズムの軽いラリーで。

「すごいな、綱海は」
 本当に頑張ったんだな、綱海。ひどく汎用な抽象的な言葉しか思いつかず、ああ、こんなにも伝える言葉が拙いのか、と言葉を選ぶのをやめて、ベンチ下に転がっていたバスケットボールを手にした。新品でも、使い古しでもなく、砂の少しついたボールは、明日また”持ち主”がくるのを待っているのだろう。

「あのさ、音村さ?俺の、高校の話・・・聞いた?」
 あの綱海が、珍しく俺の気持ちを伺うように、少し首を傾げて見つめてくる。瞬間では返答ができず、一度口を結び、開口して冷静を努めた。

「聞いた」
 冷静に、冷静に。ゆっくりと話せ。
 さぁ、”音村楽也”、心の奥の苛立ちは、隠せ。
「おめでとう、綱海」

 ありがとな!と最大の笑顔で、綱海は両手を広げた。
 それは綱海の、”ボールをこっちへ”いつものジェスチャー。

「音村、実は、俺さ、」
 俺はバスケットボールは渡さず、脇に抱えそのまま綱海のほうを見ていた。何かを話す綱海の口元、海風が彼の声を消していく。
 俺の耳には、綱海の続きの言葉は聞こえない。
 何も聞こえなかった。ヘッドフォンを外す気にもならなかった。音が出てるわけでもないその耳につけられたガジェット、昔、綱海が「かっけーな!」と全開の笑顔をくれたそれを、今、外す気はなかった。

 彼の話はきっとこうだ、この夏の大会でどんな仲間ができて、この先の進学先の高校がどんな高校で、どんな受験で。どいつと一緒に行くことになって・・・。そんな綱海はキラキラとした今年と来年の言葉を紡いでいるのだ。
 俺は鳶色の目で、ただそれを見ていた。心は鈍色のままだった。綱海の話は、どうでもよかった。
 ただ、厄介なのは、その話自体が、綱海にとって”どうしても音村に伝えたくて仕方ない”話ということだ。
 こちらとしては、どうでもよい話なのに。

 あとから考えれば、どうでもよかったのではなく、積極的に聞きたくなかったのだと思う、心底に。それがどんな”伝えたい”話だとしても。綱海の言葉を拒否したかったのだ。

「綱海、あのさ」
 俺は綱海の止まらない話を、無体に遮った。最後まで聞けよ、とは綱海は言わなかった。
 無言の後、一瞬のひどい海風が、俺の小さな声をかき消していく。
 俺はヘッドフォンを外し、冬に汗ばむ手をフードの裾で拭った。密閉式のヘッドフォンからは、音楽が流れることはなく、解放された耳元の髪が風に揺れた。

「綱海はさ、俺が、綱海と同じ大学がいいって言ったら、綱海はさ、困るかな?」
「音・・・」
 冷静に言えた。”大学進学”、これは、数少ない俺の切り札だ。
 俺にとって、容認されようが、拒否されようが、それは大きな意味はなかった。

 ”幼馴染だから、仲がいい”そう、それが当たり前で。この島の人のほとんどは、人生をこの南の島で過ごし、ささやかな家庭をもち、自然とともに暮らすという、連綿としたヴィジョンの中に生きていた。
 この切り札は、その俺が自分の手でヴィジョンを壊し、綱海に追随できるかの”切り札”だ。

「いいんじゃね?そういうのも」

 ああ、普通に笑顔でいる、綱海がいた。なぁ、それって綱海にとって、迷惑じゃないのか?
 バスケットボールを持っていた指先に、体温が戻る。
「じゃぁ、音村、俺ら単科大学じゃなくて総合大学にしないとな」
「なに?タンカ?ソウゴウ??」

 綱海の言葉を聞き返すのも面倒で黙っていると、もう一度、綱海が両手を広げて”ボールをこっちへ”いつものジェスチャーをくれる。俺は手元にバスケットボールをワンバンさせて届けた。
 綱海はそのまま、キャッチし、公園の端にあるバスケットゴールにオレンジ色の弧を描かせた。
「はずしたー」
「当たり前じゃん」
 遠すぎるゴールに擦りもせず、ボールが茂みにバウンドしていく。
 躊躇なく走ってボールを回収しにいくその背中は、子供の頃とあまり変わらない。

「東京、いつ戻るの?」
 ボールをバウンドさせて綱海はもう一度、バスケットゴールを狙うシュートフォームをした。
 まだボールは両手の中、大きくなった肩幅が上に上がり、二の腕と肩に筋肉が綺麗に浮かんだ。
「1週間くらいしたら、戻ろうかな」
「は?そんな学校休んで、綱海、大丈夫なのかよ」

 綱海は両肩を下げて、俺にボールをパスしてきた。
 大きなバスケットボールが、自分の両腕に収まる。
「”ウチの学校”、遠方の学生は、こういう帰省休暇があるんだ」
「すごいな、そういうの。マジ私学じゃん。ウチも私学だけど」

 ああ、もう、本当に。
 同じ学校ではないんだ。お前は本当に転校したんだな。綱海に、”ここには戻らない”、と突きつけられて、俺は力なく笑った。
 ここ半年、綱海が見てきた触れてきた世界を、俺は知らない。
 そして、綱海の見る”高校の世界”も、俺は知らない。
 そして高校3年間も、おそらく、一生、俺は知る術をもたない。

「俺さ、ここのメシ、好きだよ」
 海風が止まった。止まったように感じられた。

「ここの海、好きだよ」
「・・・うん」

「俺、ここが好きだよ」
「・・・うん」

「本当に、好きなんだよ」
「・・・・・・うん」

 綱海は、南側の岬を指して”高台、あの場所とっておきだったけど”と前置きする。

「今は、島の全部が、”とっておき”って感じでさ」
「なにそれ?」

「”とっておき”を、取り残したわけじゃないんだ」
「うん?」

「お前や。中学の友達も。」
「何だよ、突然」

 全部”とっておき”で、大好きなんだよ。綱海は、溶けそうな綺麗な笑顔でそう続けた。
 夕暮れの光で、バスケットゴールが沈んだ水色に見えた。この光量だと、まともに投げてもボールがゴールには入らないだろう。

「ごめんな」
「何?」

 今まで笑顔だった綱海の横顔、今は様相を変えそこに柔らかな色はなかった。
 試合中のように笑みのない真剣な顔だった。
 真顔、その通りの顔だった。

「でも、俺、選手として選ばれたら。戻れなかったから。ごめんな」
「しょうがないよ。」

「・・・大人になりてぇぇぇ」

 綱海は、独り言のように呻くように呟いた。公園の隅の、バスケットゴールを見ながら。
 射干玉(ぬばたま)に似た2つの黒い目が、遠くを見つめていた。
 その言葉の紡ぎは続く。

 ”あいつも仲間だから、一緒に連れってくれよ”
 ”お願いだよ”
 ”音村ってんだ、鬼道に似てて、いい選手なんだよ”

 ”言ったんだよ、俺、監督とかに。”
 ”全部、ワガママって言われたよ。”

 ”早く、大人になりてぇなぁ”

 ”大人じゃない”ってさ。
 本当に、”こんなに、無力”だよな。

 ”リズムで試合を掴む音村が、俺のサッカーには必要だし、雷門チームにも必ず良い風になる”
 ”特に鬼道とダブル司令塔を行えば、雷門チームはより強くなる”

 音村、俺は本当にそう考えたんだ。
 でも、”全部、ワガママ”って言われたよ。
 
「だから、早く大人になるために、この島を”地元”にすることにしたんだ」

 冷たくなってきた風が、2人の間を流れた。
 綱海が”ボールを渡して”とジェスチャーされ、素直に綱海の腕の中に渡すと、そのままボールが高く飛んだ。
 薄紫ががった夕暮れの空、ボールの色はほとんど影のような黒色だった。
「あ・・・」
 ボールがゴールに向かい、ゆっくりと飛んでいく。
 綱海のシュートフォームの両腕が空中に浮いたまま、高くジャンプした足の裏が土に着地した。
 空中に浮いたままの、その両の腕(かいな)は、鋭い岩場を登る腕のように見えた。
 褐色の肌の裸の指、綺麗に切り揃えられた爪、まだ大人に比べ、その細い手と腕で。
 ボールは、バスケットゴールの板を強く叩く。

「惜しー!」
「いや〜、今のは惜しくはないな〜」
 ボールは板にはじかれ、そのまま戻ってきた。
 空中に浮いたままだった腕は、パタリと重力に従って下に降りた。

「音村も、やってみ?」
「もういいよ、暗いし、茂みにボール入ったら面倒だよ。まだハブでるし」

 あ〜、ハブ!と久しぶりに思い出したように綱海が目を丸くし、”風が、さぶっっ”と、両手で二の腕を擦り始めた。
 寒いに決まってる。そんな軽装でいるからだ。12月だぞ。

「綱海、明日の何する?」
「うん?」

 そうだった、約束は特にしないのが自然だったんだ。
 遊びに行く時は、お互いの玄関のチャイムを鳴らすだけ。
 でも今日は、今は約束をしておきたい。

「綱海、バイト。監視員のバイト一緒にやる?」
「バイト?」

 春に綱海から一緒にやろうと声をかけられたバイトだ。人手不足か、最近回り回って部活の先輩から再度紹介があった。

「こんな季節だと客もほとんどいないんだよ、サッカーしながらでも監視員できる」
「なにそれ、怒られないのか?」

 監視員といっても、別に監視台に座ってなくてもいい。
 連絡用の機材もたされて、無人島に放置されるだけだから。
 何かあったら、連絡用の機材でレジャーセンターに連絡する程度のバイト。

「ヘーキ、先輩も監視員しながらサッカーしてたって」
「へぇ、ゆりぃな」

 水着もってこうぜ!と綱海が白い歯を見せて口角をあげた。
 同じように、俺も目を細めた。”何言ってんの?もう海、寒いよ”苦笑いして。
 もう暗くなってしまった潮騒の聞こえる公園を後にした。

「また、明日な」

 明日は、監視員のバイト。
 どうせ1日無人島で時間がある。
 色んな話をしよう。

 今までのこと、今のこと、未来のこと。
 
 綱海を家まで見送って、夕暮れの紫色の中、俺は自転車で家路に向かった。
 海の風音が、ヘッドフォンをしていない耳を掠めていく。
 波はもう、夜の黒さを呈し、小さな三角の波の頭だけが白く、夕日の最後の明かりを反射させていた。

 1人だけの帰路。
 ペダルを止め、坂の上からもう一度、海を見た。

 もう一度深呼吸して、空を見上げる。
 海の上に緞帳(どんちょう)のように広がるアメシスト色の空がそこにあった。
 その黒みを帯びた天蓋に、小さく輝く一等星が1つ。
 この島を見つめてくれていた。

 3年半後、俺たちが関東の大学の入学式で再開するのは、また別の話。

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