その手を、上に

小説同人誌『結晶機関』収録の『礼拝堂のサーペン・タイン』の前か後に読むとより楽しめます

 ─── 主よ、汝の祝福で我らを解き放ちたまえ
 ─── 喜びと平穏で心を満たしたまえ
 ─── 汝の愛と救いの恵みを享受せん
 ─── 我らを癒したまえ 荒野の旅路で

『その手を、上に』

 帝国学園の中等部と高等部では、学生寮の所在地が違う。
 キャンパスの所在地が違うためである。
 中等部の寮から高等部の寮へ、内部進学する全員が引っ越しをする。
 現状、帝国学園中等部のサッカー部3年は全員高等部に進学する。
 桜が芽吹く前。
 俺たちは引っ越し準備をすることとなる。
 佐久間と不動の部屋の片付けを手伝いながら(つまり、俺は重量物運び担当)、佐久間の部屋にたまっていたサッカー雑誌をまとめる。
 雷門中での鬼道の写真や記事は切り取ってるため、こんなにバックナンバーが揃っていても古本屋に売ることはできない。
「本、縛っといてくれ」
 ポン、と白いビニール紐が渡される。
「ああ、結んどく」
 こちらをみていた佐久間が怪訝そうな顔で「源田、本、縛っといてくれ」と同じ言葉を繰り返した。
「佐久間、もう1回読みたくなったらどうするんだ」
「読む記事はもうスクラップしてあるし、ビニール紐で縛っていいから。もう読まないし」
 ”雑誌って知らないうちに溜まるんだよ”と、佐久間が手元で雑誌を重ねビニール紐で結んでいく。1冊1冊は軽いが、10冊となるとかなりの重さになる。3年間分貯めたのではないかという雑誌の量である。
 佐久間が次々と固結びでギュッと縛っていく。
「むすんで、ひらいて〜♪」
 機嫌良さそうに佐久間がやや音程外れで歌う。
「手を、うって、むすんで〜その手を、ふふふ〜ん♪」
 歌詞がわからなくなったのか鼻歌になった。
「佐久間、”その手を、上に”だ」
 あっそっか、と、佐久間は歌い直した。雑誌のほかに不要なプリントなどがビニール紐で結ばれていく。学園内で配布された勉強やお知らせなど。これらは規定上、自治体のリサイクルには出せない。学内で焼却だ。
 廊下で誰かの足音がした。パタリ、とこの佐久間の部屋の前で止まる。機嫌良く「むすんで、ひらいて〜♪」を鼻歌する佐久間。多分きたのが不動だったら扉をあけて一言「うるせぇ、音痴」と吐いて嫌な顔して去ってくのだろう。
「そぉの、手を、ひざに・・・♪」
 廊下の人物の足音が遠ざかっていく。しだいにそれは走る音になった。
 胸騒ぎがして、扉を開ける。
 白い壁の廊下の角。
 そこを曲がって走り去った青い布の残像。
 鬼道だ、あの鬼道にちがいなかった。
「あ、源田ぁ。外いくなら、リプトン買ってきてくれ」
 部屋に佐久間を置いて、そのまま俺は白い廊下を走り出した。

 帝国学園は英国式教育である。
 この校舎の中には、体育館とは別に礼拝堂が1つある。
 学校の校舎にデザインされた十字架が示すように、礼拝堂の基調は英国国教会形式だ。
 重い木製の礼拝堂の扉を押す。
 図書館のようなホコリっぽいような、陽だまりっぽいような空気が動く。
 こげ茶の礼拝堂の椅子。
 広い礼拝堂に、1人、鬼道がいた。
 青いマントで身をかばうように。背を丸めて。
 泣いていた。
 鬼道が、泣いている。
 何ともいえない気持ちになって、礼拝堂に入り、後ろ手に扉をしめた。
 空気が密閉ビンの中みたいに動かなくなる。
 声をかけることは、憚られた。
 離れた椅子に座って、礼拝堂の前を見た。
 天井に近い部分。
 小さな丸窓。
 そこには簡素なステンドガラス。
 パイプオルガンも地味なちいさなものだ。
 ここは鋼鉄のようなこの校舎の中において、木のぬくもりがある人間らしい空間であった。
 まだ鬼道が泣いている。
 なぜ泣いているのかわからない。
 でも、泣いている。
 マナーモードにしていた携帯に、佐久間から着信が入る。
 ここで、鬼道が来ている(あまつさえ、泣いている)。
 そんなメールをしたら。
 佐久間は血相を変えてすっ飛んでくるだろう。
 今の鬼道は、少しこのままでいさせたい。
 メールには「すまない、親から呼び出しがきた」と送信しようとした指が止まった。
 礼拝堂に、歌が細く小さく響いた。
 それは鬼道の声だった。
 日本語ではなく、英語。それは丁寧で、綺麗な発音で。
 部屋の後ろ
 礼拝堂の重い扉が小さく開く、ギィという音がした。
 鬼道の綺麗な英語の歌。
 ぼんやりとはるか前の席。
 鬼道の青いマントに守られた背中を見る。

 ─── 我らを癒したまえ 荒野の旅路で

 鬼道の歌はそこで終わり、最初の歌い出しに戻る。
 暖かな日差しが、礼拝堂の椅子たちを照らす。
 動かない空気の中。
 空気の中の埃がキラキラ光る。
 古い天気管の樟脳結晶のように。白く。

 ”ガタン”

 動かない空気をかき乱す誰かの体が椅子に当たる音。
 駆けつけた独特の、上がる息の音。

 礼拝堂の椅子と椅子の間の通路に、白いものが通った気がした。

 ─── 主よ、汝の祝福で我らを解き放ちたまえ
 ・・・むすんで、ひらいて

 ─── 喜びと平穏で心を満たしたまえ
 ・・・手を打って、むすんで

 ─── 汝の愛と救いの恵みを享受せん
 ・・・またひらいて、手をうって

 背を丸めた鬼道の前。
 膝を折ってかしずく、佐久間がいた。
 祈りのために。
 こうべを垂れて胸の前で手を組む鬼道の両手。
 佐久間のモカ色の両手。
 鬼道の両手が、モカ色の手に包まれて、掬い上げられた。
「鬼道さん」

 佐久間の小さな声。
 恭しく白い髪の頭を下げていた。

「おかえりなさい」

 上げた鬼道のかんばせに、涙はもうなかった。

 影山総帥の作った縁が、俺たちを結び。
 そして引き裂いて。
 より強く、結びつきあい。
 そして、影山総帥は。
 その死によって、俺たちを解き放って。

「おかえりなさい、鬼道さん」
 佐久間が目を細めて笑った。
 鬼道の一度だけ、鼻をすすった。
「ただいま」

 鬼道。
 たとえ、お前が恩師を想い、冥府とうつつの死線を歩こうと。

 なぁ。
 鬼道。
 俺たちは、何度でも。
 お前をこの手で。
 守っていきたいと思っているんだ。

 たとえ、鬼道。
 お前の、その。
 亡き恩師に祈る。
 手が震えたとしても。

error: Content is protected !!