さよならのオフィーリア

 夜、十一時半を過ぎた頃。
「もー、なんでもいーんだけどさぁ」
 酔っ払った時の不動の常套文句がこれで。
 またか、とうんざり気味に対応することとなる。
 これ以上飲ませると面倒になるので、たとえばここが飲み屋だったら撤収を決め込むわけだが。
 残念だが、ここは俺のマンションのリビングだった。
 ううん、面倒だな、俺しかいない。他に誰もいない。
 誰かにコイツを押し付けることはできまい。押し付けるのに適した女の子もいないし、友人たちはここにはいない、というか、今は夜半だし。
「なんでも、いいわけよ」
 不動がソファの上の距離を詰めてくる。
 ずいっと顔が近くなる。近い、顔。近い。焼酎の匂いがする。
「わかる?」
「まったく、わからない」
 俺は眉をしかめてソファの上で身を引いて、片手で不動の胸を「邪魔だ」と押し返す。
「おい、なんでもいーけどさぁ、じろうちゃん」
「なんだよ」
 めんどくさい、絡んでくる酔っ払い。
「なでて、あたま。じろうちゃん」
 めんどうくさい。
 いつもは女の子とか源田が対処してるのに。
 なお、たまに鬼道も対処してくれてる、とても無表情に。
「不動、お前、しぬほど、めんどうなんですけど」
 ため息ついてソファを離席しようとしたが左手首を掴まれた。それは振りほどけない程度の握力で。
 不動が鼻で息を大きく吸って、大きく吐いた。そしてでっかいため息。
「おい、なでろ」
「人に頼む態度か、それが」
 不動はチッという顔になり、目をつぶって、次に自分の胸の前で両手を拝み合わせた。
 何これ、拝まれてる。
 俺は、あれか、地蔵か。
「なんでもいーから、なでろ!」
 めんどくせぇ。
「不動、俺に何もメリットがない」
「あるぜ!ある!」
 両目を細めて、ドヤ顔で不動が笑う。
「俺の頭、なでると、俺がちょっと幸せになります」
「それは、お前のメリットじゃないか」
 え?と不動が目を開けて、びっくり顔で「友達が幸せになるのは嬉しくねーの?」と、した手に出てくる。
 残念、俺は源田のような博愛者ではないので、そういう取ってつけた言い回しに対応していません。
「いいじゃん、1回だけ!やって!」
「・・・言い方が、なんかいやだ」
 肯定の意味にとったのか、不動の口元がみるみるωの形になっていく。
「そうだ、俺のこと、鬼道だと思ってなでろ!」
「・・・鬼道はこんなことしない」
 不動に掴まれたままの左手は、そのまま不動の頭の上に持ってかれる。
 なんというか、ふわっとした不動のこげ茶の髪先に指が触れた。
「畜生。不動、二度としないからな、この酔っ払いめ」
「へぃへぃ」
 目を細めて不動が笑う。緑色がかった瞳がまぶたの向こうに隠れた。
「二度はないと思え」
 撫でられるのを待つ家猫みたいな不動。
 ついに、つかんでいた俺の左手首を、不動が離した。
 ─── よし!
 ─── 今だ
「佐・・・!」
 勢いよく不動を抱きしめた。
 真正面から。両腕で。そうして左手で髪をといて。
「佐久・・・!!」
 動揺した不動が、身を引こうとしてビクッと肩に力が入った。
 ─── ざまあみろ!
 ─── びっくりしただろ。
 面食らった不動の両手が所在なさげに空中を掻いていた。
「おい、やめろ、佐久間」
 陽気な酔っ払いだった男の声が、もう低く冷たく冷静なものに変化していた。
 抱きしめたまま、無言でそのまま不動の背中をあやすようにポンポンと撫でるようにたたく。
「やめろっつってんだろ、おい、この」
 言われるままに撫でるわけないだろう、バカ。
 次は誰か素直な奴に頼めよな。源田とか・・・源田とか。
「離せよ」
 全然俺より筋力あるんだから、力づくで引き剥がせばいいのに。
 腕の中の大の大人は、口答えばかりだ。
「・・・おい、なんなんだよ、これ」
「そうやって周囲にいる人たちを試すのは、やめろ。不動」
 ガバッと勢いよくに不動を引き剥がすと、軽く口を開けっぱなしにした不動。
 不服そうな機嫌を損ねた顔で眉間にシワを作っていた。
「不動、もう、試さなくても」
 言葉を続ける俺の顔を見ながら、不動の口が真一文字に結ばれる。
「もう、いいんだ」
 不動は、不安、驚き、動揺それらを綯交ぜにした表情をしたが、一瞬でそれは消えた。
 そしてスッと消えて眉間にシワをいれた顔に戻った。
「不動、お前の周囲にいる人たちは、お前のことを拒否してない」
 だって、拒否していたら、みんな去っていくだろう?お前が、親元や、あの海の町を去ったように。
「佐久間クン、は、さ」
 不動は酔っていたのを思い出したかのようにソファの背もたれになだれて、こちらを見た。
「じゃぁ、・・・佐久間クンは、俺のことどう思ってるわけよ?」
 そう言ったあとに、不動が「言っちまった」というような”しまった”という顔になる。
 バツの悪そうに後ろ頭を掻いて、「あー・・・言わなくていい」と天を仰いで目を閉じる。
「不動は」
 相手のまぶたが上がって、一度瞬いて、緑がかった目がこちらを見据えてくる。
「俺にとって、不動明王は」
 シンとした深夜の空気。自分の声が白い壁にあたる。
「・・・・不動明王は・・・・・」
 空気が一気に緊張する。触発しそうな、硬い空気。
 もう一度、しっかりと不動を見据えた。
 そして、ハッキリしたした声で。
「・・・・・・す・げぇ・え、め・ん・ど・う・な・ヤ・ツ」
「佐久間・・・」
 間もなく怒鳴られるかと思ったが、そんな気配はなく。
 目を猫みたいに細めて「ふぅん」含み笑いする不動がいた。「なるほど」と片方の口角が上がる。
「佐久間クン、自己紹介、おつ!」
「・・・!!」
 あああああ?!
 俺はお前ほど面倒な男じゃねぇよ?!
 瞬時に殴り合いになる深夜12時。
 朝。
 朝起きてすぐ、腫れた頬に保冷剤をくっつけた。
 学生たちに何をいわれるかわからないし、こんな頬じゃ鬼道に心配されてしまう。
 そして、俺は夕刻からの仕事のために共用部分を通りかかった。
 マンション掲示板に赤い文字で「深夜の大声禁止」の張り紙が出現していた。
 その張り紙を無視して通り過ぎる。
 ─── 今度、頭撫でろって言い出したら、その場で部屋から追い出す。

 しかし、その日を境に、不動から「なでろ、あたま」の言葉が出ることはなくなった。

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